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「論語物語」下村湖水著 を読んで

「論語」には何度か挫折して、苦手意識があった。とても正しいことが書かれているのは分かる気がするんだけど、如何せん硬くて、心にしみこんでいかなかった。

下村湖水さんの「論語物語」はそんな論語の硬さを物語化することで和らげてくれている。いや、和らげるどころか、愛嬌のあるキャラクターと、読み手が感情移入しやすいセリフ回しで小説に没入するように夢中で読むことができた。

孔子の教えを受ける性格も能力もバラバラの弟子達がとてもいい。
ある者は出来の良い他の弟子に嫉妬したり、ある者は孔子の評価を得ようと見栄を張った末に墓穴をほったり、またある者はやる気がないわけではないんだけど、うっかり寝坊して講義に遅れて孔子に怒られたり。
みんなとっても人間臭いのだ。

そんな人間味たっぷりの弟子たちに道を説く孔子の言葉には、どんな世の中でも通じる真理が確かにある。気がする。

特に好きなのは「楽長と孔子の眼」という一話。

優秀な奏楽者である楽長は、孔子を前にするとどうしてもミスをしてしまう。
楽長は自問自答する。孔子は確かに音楽の道に通じてはいるが、実際の楽器を扱う技術においては自分の方が玄人だ。孔子が見ているからと手が固くなるような自分ではないはず。では一体何が自分の手元を狂わせるのか。
悩みつつも楽長は、孔子と面会をする。孔子に事の次第を話すと、孔子は口を開く。
「楽長!もっと思い切って自分の心を掘り下げてみなさい。」
孔子は楽長の心には邪心があり、それが孔子の眼を見ると手元が狂う原因だと話す。
「君の心の中では、この孔丘という人間がいつも対立的なものとなっている。君は気が付いてないかもしれないが君の奏楽にとってわしは一つの大きな障害なのじゃ。そのために君の心は分裂する。従って君は完全に君の音楽に浸りきることができない。そこに君の失敗の原因がある。そうは思わないかの?」
孔子の言葉で楽長は自身の邪心に気が付き、純粋な音楽の道を改めて志すことを心に決める。

「もっと思い切って自分の心を掘り下げてみる」
楽長は自分の能力や視座について冷静に分析をしていたとは思う。
やはり人は自分が大切にしていて力を傾けている事においては、こだわりがあるからこそ、自分本位のとらえ方をし、重要なことを見落としてしまうものだと思う。同じところ(自分本位の思考)ばかり掘り起こして、分かった気になって、肝心の場所(本心)は手つかずのまま、ということはよくある。
「障害があることによって心は分裂する」
これも思い当たる。
心にわだかまりがあると目の前の事、目の前にいる人に集中しきることはできない。常にどこか、そのわだかまりに気をとられている自分がいる。

自分の心を掘り下げて障害を見つることは、とっても怖いことだから、なかなかできない。その障害は大抵、恥ずかしくてかっこ悪くてちょっとずるいものだったりするから、隠しておきたい、落ち込まないように見ないふりしたい、という自己防衛なんだろう。自己防衛なら仕方ないよね。とどこか心を掘り下げないことを正当化している自分がいた。

でもわかっている。何かに行き詰まった時に
状況を打開するヒントはいつも自分の中にしかない。
さぁ何が障害になっている?手つかずの本心はどこ?
怖くても掘り下げなきゃ。
だって何といっても、孔子がそう言っているのだから。



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