見出し画像

卒業文集と勉強という悪魔

【いつか必ずかませる僕】
テンションによって書こうとすることがコロコロ変わる。最初は真っ当に卒業文集を書いていた。周りの人への感謝から始まり、六年間の思い出を順に振り返るちゃんとしたやつだ。初めて書いた日から数日経って再び開いた時、それを全部消した。なんかつまんないと思ってしまった。次に書こうとしたのは自己分析だった。将来の僕の為に、自分を客観視して性格や考えていることを書こうとした。これは結構いいネタだと思ったが、「自分」一本で書ききるのは難しいと思ったので断念した。そして、最後に考えたのが自由研究だった。六年間で一度も自由研究という宿題がなかったので、小学生ぶりのグレードアップしたハイレベルな自由研究をやってやろうかと思ったが、流石に深夜テンションだった上、なんか違うと思った。これらを経て今に至る。テーマは「六年間を振り返って」だから最初の僕が正解なのだろうが、最後の文集でそのまま書く自分がなんか嫌だった。多分(面白いことをしたい、どこかでかましたい)そんなことを常日頃考えているので、こういった所で出てしまうのだ。決して夏休みの受験勉強で病んでいるわけではない。確かに気分が乗らなくて憂鬱になることもあるが、これは僕の本心である。数年前の僕だったら、(人とちょっと違うことをしたい、少し変わっていると思われたい)という気持ちで今と同じことをしているかもしれない。しかし、今の僕は真っ直ぐである。他人がどうこうじゃなくて、僕がやりたいことをやっている。これは自分の中での一つの成長だ。
もう書きたいことはないのだが、変なことを始めてしまった手前、今更六年間を振り返ることなどできないので自分、先生方、両親へのメッセージを書く。友達へは直接伝えればよいので割愛。
自分へ
「逃げるのはダメだ、逃げとブレを履き違えるな」
おそらくこれを読んでいる頃には、また思っていることが違うのだろう。僕はブレやすい。(最初のようにちゃんと書いとけよー何やってんだよー笑)と思うかもしれないし、これで良かったと思うかもしれない。ころころ気持ちが変わるのはあまりよろしくないという風潮があるが、僕はその時の気持ちに従っていいと思う。傍から見れば一貫性がないと思われるかもしれないが、自分の中でその変化を成長に落とし込めるなら問題はない。
先生方へ
中高生は家族や親戚以外の大人と接する機会が少ないと思います。バイトや課外活動をしていないと中々大人の方々と話す機会がありません。バイトなどをしている○○○○生はごく一部でしょうから我々が継続的に話す外部の大人との会話は、通っている美容室の担当の人との他愛もない話だったり、塾の職員さんとの事務的な話ぐらいだと思います。こんな風に見方を変えれば、学校は友達と会ったり、勉強したりする場所だけでなく、我々の大人の方々と接する数少ない機会のうちの一つでした。それが週五もあるので、先生方が我々に与えてくださった影響は非常に大きいです。愉快でたのもしく何だか安心するそんな良き教育者の下で六年間過ごせて幸せでした。六年間お世話になりました。
両親へ
残りの文字数的にあなた方へのメッセージが一番短くなってしまいます。ご了承ください。「そんなことを言うくらいなら、何か違うこと書け笑」という言葉が今にも聞こえてきそうですが、必死に僕も考えた末「十八年間育ててくれてありがとう。」これ以外思いつきませんでした。今後子育ての負担はだいぶ減っていくでしょうが、親子というのは変わらないので仲良くしてください。

卒業文集より

自分のエネルギーが無くなるとnoteに戻ってきてしまう。たいして見たくもないつまらん無駄なエンタメを消費する。そんな時間にムカついてくる。
三連休がここ数年とても苦手だ。
月~土まで学校でも放課後も勉強して日曜くらい休ませろと思っても受験勉強からは逃げられない。ただ少し頑張ってみよう。そうは思える。何故ならば受験生だから。みんなやっているから。月から日まで毎日勉強漬け。こんな生活はこれで終わりにしたい。
しかし、三連休となると話が違う。休みが多すぎる。休みなのに頑張らなきゃ行けない日が多すぎる。それでプツンと切れてしまう。
勉強というハードルがなければ存分に休めるのに、それがあるせいで気持ちよく休めない。
ハードルを飛び越えるのではなく、その下をくぐって通過しようとしても体がデカすぎて通過できないそんな感覚だ。
早くこの感覚から抜け出したい。でも抜け出すのには勉強が必要。ナンナンマジデ。
ただの愚痴noteになってしまったが、
今日も頑張る人に何かいい事ありますように。
毎日お疲れ様です。
こう言い残して明日の自分に賭けてみたい。
明日こそかましたい。

いいなと思ったら応援しよう!