【期末レポート③】 ロシアの進出がもたらした北海道への領土意識
こんにちは。
今回は、日露関係史(2019年度秋学期)という授業のレポート課題になります。
この授業のテーマは、江戸時代における日露関係です。具体的には、ラクスマンやレザノフといったロシア使節の来航をめぐる思惑、日本人漂流民(大黒屋光太夫など)や北海道で活躍する商人(高田屋嘉兵衛)を介した日露の交流の流れを見ていきます。
レポートの課題は、授業の内容を踏まえて、江戸時代の日露関係について自分でテーマを決め、本などで調べてまとめること。
僕は、江戸時代の北方地域に対する日本人の地理認識の変化をテーマにしてみました。
中世以来、北海道(当時は蝦夷地)は日本型華夷秩序の外側にあると考えられていました。しかし、18世紀にロシア人がラッコの毛皮などを求めてオホーツク海近辺に姿を現したのをきっかけに、日本は北海道をロシアとの緩衝地帯と見なすようになります。
こうした地理認識の変化が北海道への領土意識を生み出し、明治以降に北海道が「日本」になっていくことへと繋がっていきます。
それでは、どうぞ。
【注意】レポートの無断転載はご遠慮ください!!
2019年12月16日 第1稿
2023年 7月11日 第2稿
2024年 8月 4日 第3稿
1. はじめに
北海道が日本の領域内にあることは、現在では自明になっている。しかし、このような認識は始めから存在していたわけではなく、歴史的に形成されたものである。
かつて「蝦夷地」と呼ばれた北海道は、江戸時代の半ばまでは日本の領域外の地と見なされていた。しかし、18世紀に大国ロシアが北東アジアに進出してきたことを契機に、北辺に対する日本人の地理認識は大きく変化した。その結果、北海道は日本の領域へと組み込まれていったのである。
2. 「異域」としての蝦夷地
中世日本の人々は華夷秩序的世界観の中に生きていた。この世界観においては、天皇の住む京都が最も清浄な空間であり、そこから同心円状に離れていくにつれてケガレが多くなると考えられていた〔1〕。
中世日本の北限は津軽海峡であり、その向こう側に位置する蝦夷地は、地の果ての「異域」と見なされた。「異域」は最もケガレの多い場所とされ、鬼が住み、様々な災厄をもたらすと考えられていた〔2〕。
1603年に江戸幕府が成立すると、幕府は日本を中心とした世界観を構築し、それをもとに周辺諸国や諸民族を位置づけていった〔3〕。この世界観において、蝦夷地は日本の領域外にありながらも、日本に従属する地とされたのである。
江戸前期における蝦夷地は、きわめて曖昧な位置づけにあった。そのことは、1644年に作製された『正保日本図』にも表れている(図1、図2)。同図では、本州以南の日本列島の形が当時としては正確に描かれていたのに対し、蝦夷地の形は不正確であった〔4〕。そもそも、蝦夷地南部を治めていた松前藩自身が、蝦夷地全体の地理を正確には把握していなかった。
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『アイヌ語地名と北海道 図録』、10頁。
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『アイヌ語地名と北海道 図録』、10頁。
このような地理認識の曖昧さは、国家領域の曖昧さとも連動していた。とはいえ、華夷秩序的世界観においては、この状態でも何ら問題なかったのである。
ところが、蝦夷地の帰属を不明瞭にしたままでは済まない出来事が発生した。ロシアの北東アジア進出である。
3. ロシアの東方拡大と『加模西葛杜加国風説考』の刊行
17世紀以降、ロシア人はクロテンやラッコの毛皮を求めてシベリア方面への進出を始めていた。同世紀末にはカムチャツカ半島に達し、1769年には千島列島のウルップ島にまで到達した〔5〕。
急速に勢力を拡大していくロシア。その動向を初めて日本に伝えたのは、ハンガリー人のフォン・ベニョフスキー(はんべんごろう)である〔6〕。1771年、彼は流刑地のカムチャツカから逃亡する最中、長崎のオランダ商館長に書簡を送り、ロシア人のカムチャツカ進出について警告した〔7〕。
この「はんべんごろうの警告」を契機に、日本国内では洋学が盛んになった。『ゼオガラヒー』や『ベシケレイヒング・ハン・ルュスランド』といったオランダ語の地理書が、オランダ通詞の吉雄耕牛らの手によって次々に翻訳された〔8〕。
このような洋学の成果を踏まえて1783年に刊行されたのが、工藤平助の『加模西葛杜加国風説考(赤蝦夷風説考)』である。江戸在住の仙台藩医であった工藤は、すぐれた経世家としても知られていた〔9〕。工藤はその多彩な交友関係を活かして、長崎でオランダ語の地理書を入手し、吉雄耕牛らからロシアに関する情報を得た〔10〕。
また、工藤は松前からも情報を入手した。情報提供者は湊源左衛門なる人物である。湊は松前藩の勘定奉行を務めていたが、1780年の飛騨屋公訴事件〔11〕の際にその責任を一手に負わされ、同藩から追放されてしまう〔12〕。そのことで藩に恨みを抱いていた湊は、意趣返しとして、飛騨屋公訴事件において松前藩の代書人を引き受けていた工藤平助に、藩の内情やロシア人との密貿易の情報などを提供した〔13〕。
長崎や松前から得た情報をもとに、工藤は『加模西葛杜加国風説考』を著した。
本書は上下2巻からなる。まず下巻が1781年に書かれ、上巻は1783年に完成した。下巻は資料編に当たり、先述したオランダ語の地理書を参考にして、カムチャツカ半島の地誌が記されている。下巻の内容を踏まえて、上巻では日本北辺の概況を分析し、それに対する工藤の意見が述べられている〔14〕。
また、本書には世界図と蝦夷図が挿入されていた。世界図には、ユーラシア大陸北部に広大な領域を持つロシアが描かれている。これが、日本で初めて描かれたロシアの地図となった。他方で蝦夷図は、蝦夷地の開発を幕府に提案する際の資料として作製された〔15〕。
工藤平助は本書において、ロシア人が千島列島を南下して日本に通商を求めてきていることや、場所請負商人(飛騨屋)がロシア人と密貿易を行っている疑いがあることなどを指摘した。それを踏まえて、幕府は早急に蝦夷地を開発し、ロシアと積極的に通商を行うべきであると主張した〔16〕。
『加模西葛杜加国風説考』は、日本で初めてロシアのことを取り上げた書物であった。もともと本書はカムチャツカ半島の地誌を記したものであり、工藤の関心は蝦夷地からカムチャツカ半島にかけての地域の地理を把握することにあった。しかし、結果的には本書を通じて、北東アジアに勢力を拡大するロシアの実態を解明することに繋がったのである〔17〕。
4. 蝦夷地に対する領土意識の芽生え
『加模西葛杜加国風説考』の内容は、幕府の中枢に衝撃を与えた。それは、本書が中世以来の日本人の地理認識を大きく転換させるものだったからである〔18〕。
ロシアは西洋世界に属する主権国家である。主権国家は、「国境によって他とは区分された独自の“領域(領土)”を有し、その領域内に“人民(国民)”を抱え、さらに“主権”を保持する存在」と定義される〔19〕。ここからわかるように、主権国家は自国の領域や他国との境界を明確にしようとする。
華夷秩序的世界観には存在しない「主権国家」が日本北辺に出現したことによって、日本は自国の領域を明確にする必要に迫られた。もはや蝦夷地は、地の果ての「異域」ではなく、日露両国に挟まれた「緩衝地帯」にすぎなくなった〔20〕。その帰属を曖昧なまま放置しておけば、やがて蝦夷地はロシアの手に落ちてしまうだろう。
江戸幕府は蝦夷地を、日本の外側にあるとしながらも、日本に従属する地と見なしていた。すなわち、蝦夷地は日本の領域には属さないが、日本の勢力圏には含まれていたのである。自国の勢力圏と考えている地域に外国勢力が進出する気配を見せたため、自らの権益を主張し始めた〔21〕。ここに、蝦夷地に対する日本の領土意識の芽生えを見出すことができよう。
1785~86年にかけて、幕府は初めて本格的な蝦夷地の調査を行った。調査の結果、工藤平助が指摘するロシアとの密貿易の証拠は得られなかったが、松前藩が隠蔽していたロシア人シャバーリン来航の事実〔22〕が明るみに出た。
ロシアが蝦夷地のすぐ近くまで迫っていることに危機感を抱いた幕府は、蝦夷地の直接支配に踏み切った。エトロフ島を日本北辺における国境の島と位置づけ、エトロフ島以南に住むアイヌがウルップ島以北へ渡ることを禁止した〔23〕。
また、最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵ら幕府の役人による蝦夷地の測量が行われ、それまで不明だった蝦夷地の地理が次第に明らかにされていった〔24〕。
図3は、近藤重蔵の作製した蝦夷地の地図である。『正保日本図』(図2)と比べると、蝦夷地の形が実際のそれに近づいているのが一目でわかる。蝦夷地に対する領土意識の芽生えが、正確な地図の作製を促したのである。
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『アイヌ語地名と北海道 図録』、17頁。
5. おわりに
華夷秩序的世界観においては、「異域」である蝦夷地の帰属を曖昧にしていても、何の問題もなかった。しかし、世界観を異にする西洋の主権国家ロシアが北辺に出現したことで、日本は蝦夷地の位置づけを明確にしなければならなくなった。それが、蝦夷地、のちに北海道と呼ばれる地域が日本の領域に組み込まれることに繋がった。
日本の近代的な領土意識は、ロシアの北東アジア進出に対する危機感から生じたものと言えよう。
(3183字)
【注】
濱口裕介・横島公司『シリーズ藩物語 松前藩』(現代書館、2016年)、11頁。
濱口・横島『松前藩』、11頁。
濱口・横島『松前藩』、42頁。
濱口・横島『松前藩』、39~40頁。
濱口・横島『松前藩』、92~93頁。
岩﨑奈緒子「『加模西葛杜加国風説考』の歴史的意義」(九州史学研究会編『境界からみた内と外』、岩田書院、2008年)、60頁。
秋月俊幸『千島列島をめぐる日本とロシア』(北海道大学出版会、2014年)、74~77頁。生田美智子 監修・牧野元紀 編『ロマノフ王朝時代の日露交流』(勉誠出版、2020年)、41~42頁。
岩﨑「『加模西葛杜加国風説考』の歴史的意義」、64頁。
濱口・横島『松前藩』、96頁。
秋月『千島列島をめぐる日本とロシア』、77~78頁。岩﨑「『加模西葛杜加国風説考』の歴史的意義」、64頁。
濱口・横島『松前藩』、88~91頁。
岩﨑「『加模西葛杜加国風説考』の歴史的意義」、64頁。濱口・横島『松前藩』、88~91頁、97頁。
濱口・横島『松前藩』、91頁、96~97頁。
岩﨑「『加模西葛杜加国風説考』の歴史的意義」、64頁。
岩﨑「『加模西葛杜加国風説考』の歴史的意義」、59頁。
濱口・横島『松前藩』、97頁。
岩﨑「『加模西葛杜加国風説考』の歴史的意義」、59頁、66頁。濱口・横島『松前藩』、96頁。
岩﨑奈緒子「寛政改革期の蝦夷地政策」(『史林』第97巻第4号、2014年、71頁)。
小川浩之ほか『国際政治史 ―主権国家体系のあゆみ―』(有斐閣、2018年)、15頁。
岩﨑「『加模西葛杜加国風説考』の歴史的意義」、73頁。濱口・横島『松前藩』、97頁。生田・牧野『ロマノフ王朝時代の日露交流』、44頁。
菊池勇夫『エトロフ島 ―つくられた国境―』(吉川弘文館、1999年)、54頁。
濱口・横島『松前藩』、94~96頁。生田・牧野『ロマノフ王朝時代の日露交流』、43~44頁。
桑原真人・川上淳『増補版 北海道の歴史がわかる本』(亜璃西社、2018年)、103頁、133頁、139~140頁。濱口・横島『松前藩』、113~115頁、129~131頁。
桑原・川上『北海道の歴史がわかる本』、154~159頁。
【参考文献】
秋月俊幸『千島列島をめぐる日本とロシア』(北海道大学出版会、2014年)
生田美智子 監修・牧野元紀 編『ロマノフ王朝時代の日露交流』(勉誠出版、2020年)
岩﨑奈緒子「『加模西葛杜加国風説考』の歴史的意義」(九州史学研究会 編『境界からみた内と外』、岩田書院、2008年)
岩﨑奈緒子「寛政改革期の蝦夷地政策」(『史林』第97巻第4号、2014年)
小川浩之ほか『国際政治史 ―主権国家体系のあゆみ―』(有斐閣、2018年)
菊池勇夫『エトロフ島 ―つくられた国境―』(吉川弘文館、1999年)
桑原真人・川上淳『増補版 北海道の歴史がわかる本』(亜璃西社、2018年)
濱口裕介・横島公司『シリーズ藩物語 松前藩』(現代書館、2016年)
北海道博物館 編『北海道博物館第5回特別展 アイヌ語地名と北海道 図録』(北海道歴史文化財団、2019年)
以上になります。
現在ではあまり耳にしませんが、かつては本州より南は「内地」、北海道は「外地」と呼ばれていました。
大阪で生まれ育った僕は、子供の頃には両親に何度も北海道へ旅行に連れて行ってもらいましたが、北海道に対してはいつも、「日本」のようで「日本」ではない特別な場所というイメージを持っていました。
歴史を紐解いてみると、こうしたイメージにもちゃんとした理由があったのだということが、よくわかりますね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。