プラハの歩み ~古都と近代都市の二面性~

 以前、大学の期末レポートで、チェコの首都プラハの歴史について簡単にまとめたことがあった。近々、旅行でプラハを訪れる予定なので、自分の予習用としてレポートを掲載しておきたい。プラハを観光する際には、何か参考になるかもしれない。

 なお、本記事は、現地で撮ってきた写真などを追加した上で、いずれ投稿し直すつもりである。



2020年8月7日 第1稿
2024年10月15日 第2稿




はじめに

 チェコ共和国の首都プラハには、「プラハ歴史地区」と呼ばれる場所がある。同地区は、フラチャヌィ、マラー・ストラナ、旧市街、新市街という四つのエリアから成る。
 地区内には中世以来の建造物が数多く残されている。そのことにより、プラハ歴史地区は1992年、ユネスコの世界文化遺産に登録された〔1〕。


プラハ歴史地区
『地球の歩き方 チェコ・ポーランド・スロヴァキア』


 これら四つのエリアはもともと個別に成立し発展してきたが、18世紀末に一つに統合された。以降、プラハは近代都市として歩み始める。
 19~20世紀にかけて、都市化の進行したプラハは、急増する人口に悩まされ続けた。一極集中によって市内の住宅は慢性的な過密状態となり、その解消のために町は試行錯誤を繰り返した。

 本稿では、プラハ歴史地区を中心に、この町の歩んだ過程を追っていきたい。なお、プラハやチェコに関連する地名・人名などの固有名詞については、できる限りチェコ語表記を併記する。


【注】

  1. 『地球の歩き方 チェコ・ポーランド・スロヴァキア 2020~2021年版』(ダイヤモンド・ビッグ社、2020年)、42頁、62~63頁。



第1章  水陸交通の要衝として

 プラハ(Praha)の語源は、チェコ語の「prahy(瀬)」や「vyprahlý(乾いた)」などが有力とされる。後者は、乾いた場所に建設された城の名前に由来している〔1〕。
 ヨーロッパの中央を南北に流れるヴルタヴァ川(Vltava)には、所々に浅瀬が形成された。架橋技術が未発達の時代において、人々は河川の横断が容易な浅瀬を利用していた。ヴルタヴァ川の浅瀬の両岸に成立した町が、プラハである〔2〕。

 ボヘミアの森を源流とするヴルタヴァ川は、チェコ地方を北上した後、北ドイツ平原で「エルベ川」と名前を変え、北海に注ぐ。ヴルタヴァの源流からボヘミアの森を越えると、黒海に注ぐドナウ川へと繋がる。こうして、北海文化圏とドナウ川文化圏がヴルタヴァ川を介して結ばれた。
 さらに、ヴェネチアからプラハを経由してポーランドやロシアに至る道など、国際交易路も複数存在した〔3〕。

 ヨーロッパの南北を結ぶ河川の道と、東西を結ぶ陸の道が、ヨーロッパの中央で交差していたのである〔4〕。その交点に位置するプラハは、古くから水陸交通の要衝であった。


 チェコの作曲家ベドジフ・スメタナ(Bedřich Smetana 1824~1884)の代表曲に、連作交響詩「わが祖国(Má Vlast)」という作品がある。その第二曲「ヴルタヴァ(モルダウ)」は、チェコを象徴するヴルタヴァ川の流れを幻想的に描写している。
 スメタナ自らが曲の内容を解説した文章がある。以下に引用しておこう。

「最初に二つの源流が現れる(暖かいヴルタヴァ川と冷たいヴルタヴァ川)。これら二つの支流はやがて合流して、広大な牧草地と森を通り抜け、村人たちの賑わう陽気な祝祭を過ぎて進む。そして銀色の月明かりの下では水の精が踊り回る。誇り高き城・宮殿・神々しい古びた廃墟・それらが荒々しい岩と一つになって通り過ぎる。ヴルタヴァ川は聖ヨハネの急流に淀んで旋回し、プラハに向かってようようと流れ出る。ヴィシェフラトが威厳を帯びて川沿いにその姿を現す。ヴルタヴァ川は次第に視界から遠ざかり、最後にはラベ〔エルベ〕川へと注ぐ」

内藤久子『チェコ音楽の魅力』(東洋書店、2007年)、76~77頁。


 この解説文を踏まえて、もう一度「ヴルタヴァ」を聴き直すと、この曲の理解がさらに深まるだろう。


【第1章 注】

  1. 石川達夫『黄金のプラハ』(平凡社選書、2000年)、14頁、361頁。

  2. 石川『黄金のプラハ』、14頁。

  3. 田中充子『プラハを歩く』(岩波新書、2001年)、17~18頁。

  4. 石川『黄金のプラハ』、14頁。



第2章 フラチャヌィ(Hradčany 城の丘)

 フラチャヌィは、ヴルタヴァ川の左岸の高台になっているエリアを指す。9世紀後半、プシェミスル家(Přemyslovci)のボジヴォイ(Bořivoj 在位:870~895頃)がフラチャヌィにそびえる岩山を要塞化し、城郭を築いた〔1〕。これが、現在も残るプラハ城(Pražský hrad)である。
 973年、プラハにカトリックの司教区が置かれると、プラハ城はチェコ国王の居城としてだけでなく、宗教的権威の中枢としての役割も果たすようになった〔2〕。1918年にチェコスロヴァキア共和国が成立して以降は、大統領府が置かれている。

 プラハ城からストラホフ修道院(Strahovský klášter)に至るまでの間に、町が広がっている。ここは当初、民家が点在するだけの小さな集落であった。
 ところが、隣接するマラー・ストラナの大部分がフス戦争や大火などによって焼失すると(第4章参照)、それまでマラー・ストラナに居住していた貴族や聖職者たちがフラチャヌィに相次いで移住してきた。彼らによって宮殿などが新たに建設され、フラチャヌィの町は拡大していった〔3〕。


 ところで、プラハには、プラハ城と対を成す城郭が存在する。ヴルタヴァ川右岸にあるヴィシェフラト(Vyšehrad 高い城)である。プシェミスル家の第二の城として、10世紀後半に築かれた〔4〕。
 プラハ城もヴィシェフラトも、共にプラハの町を一望できる高台に位置している。高台の居城は、為政者が町全体の様子を監視するのに都合が良かったと考えられる。

 スメタナの『わが祖国』の第一曲「ヴィシェフラト」は、ヴィシェフラトの栄枯盛衰を描写している。スメタナは次のように解説する。

「伝説の吟遊詩人ルミールが、岩上の城ヴィシェフラトを眺めながら、過去に思いを馳せている。奏でる竪琴の響きとともに、栄光の時代の王たちの祝宴の情景が浮かんでくる。勝利の歌がこだました城は幾多の戦いで崩れ落ち、金色の玉座も打ち砕かれた。ヴィシェフラトは廃墟となり、ルミールの竪琴の音は風のなかに消えてゆく」

内藤『チェコ音楽の魅力』、73~75頁。


 曲の冒頭でハープによって奏でられるメロディは、「ヴィシェフラト」のテーマであると同時に、『わが祖国』全体を統一する役割も果たしている。このメロディは、第二曲「ヴルタヴァ」と終曲「ブラニーク(Blaník)」のそれぞれ終盤で再び現れる。


 また、『わが祖国』の第五曲「ターボル(Tábor)」は、フス戦争(1419~36)を題材にしている。ターボルはフス派の拠点となった町であり、のちにチェコ民族復興の聖地とされた。
 ヨーロッパの宗教改革の先駆者であるヤン・フス(Jan Hus 1369頃~1415)は、当時のカトリックの腐敗を糾弾したため、コンスタンツ公会議(1414~17)で火刑に処された。その後、フスの考えに賛同する人々(フス派)が立ち上がり、神聖ローマ皇帝の派遣する軍と戦った。これがフス戦争である。

 19世紀にヨーロッパ各地で民族独立運動が盛んになると、ハプスブルク帝国の支配下にあったチェコの人々によって、フスは民族的な英雄・象徴に祭り上げられていった。スメタナの『わが祖国』は、このような時期に書かれた曲である。

 「ターボル」は、フス派のコラール「汝ら神の戦士らよ(Ktož jste boží bojovníci)」が繰り返し流れる構成を取る〔5〕。この旋律は、続く「ブラニーク」にも再び現れる。

コラール「汝ら神の戦士らよ」


 一般的に、『わが祖国』では「ヴルタヴァ」が飛び抜けて有名であり、これが単独で演奏されることが多い。しかし、他の曲も合わせて聴くと、曲同士が緊密に結び付いているのがよくわかるので、お勧めである。


【第2章 注】

  1. 片野優・須貝典子『図説 プラハ』(河出書房新社、2011年)、28頁。田中『プラハを歩く』、22頁。

  2. 片野・須貝『図説 プラハ』、28頁。

  3. 田中『プラハを歩く』、115頁。

  4. 片野・須貝『図説 プラハ』、10頁。

  5. 内藤『チェコ音楽の魅力』、80~83頁。



第3章  旧市街(Staré Město)

 旧市街は、ヴルタヴァ川の右岸に広がる町である。
 ここには早くから市場があり、外国人商人と地元住民との間で物資の交換が盛んに行われていた。11~12世紀には商人の居留地が成立し、税関が置かれた。周囲にはロマネスク様式の宮殿、住宅、教会、修道院などが建設されていった〔1〕。

 ヴルタヴァ川は、旧市街の付近で東に大きく蛇行する。そのため、河川が氾濫するたびに右岸は水浸しになった。その影響で、町の衛生状態は次第に悪化していった。
 1235年、プシェミスル家出身のチェコ国王ヴァーツラフ1世(Václav Ⅰ 在位:1230~53)は、既存の町を土台に本格的な都市への整備を進めた〔2〕。これが現在の旧市街である〔3〕。


13世紀のプラハ旧市街
田中『プラハを歩く』、68頁。


 整備された旧市街の面積は約140㏊であり、町の周囲を市壁が取り囲んでいた。市壁は全長1.7㎞、高さ10~12m、幅2mで、13の門があり、60m間隔に塔が設置された。旧市街のナーロドニー通り(Národní třida 国民通り)の一角には、市壁の門と塔の一部が残っている〔4〕。
 市壁の外側には、幅25m、深さ8mの濠が掘られた。現在のナ・プシコピェ通り(Na přikopě 濠の上の)は、1760年に濠を埋め立ててつくられた道路である〔5〕。

 プラハを始めとする中世以来のヨーロッパの都市は、市壁で囲まれているものが多い。アルプス山脈、ピレネー山脈、カルパチア山脈などを除いて、ヨーロッパの大部分は平原で占められており、天然の要害が少ない。さらに、ヨーロッパはユーラシア大陸と陸続きのため、古来より人々の往来が盛んであった。外敵の侵入を防ぐには、都市を人工的な壁で囲み、外と隔絶する必要があったと考えられる。


【第3章 注】

  1. 石川『黄金のプラハ』、102~103頁。

  2. 田中『プラハを歩く』、69頁。

  3. 当初は「プラハ市(Pražské Město)」と呼ばれていた。

  4. 田中『プラハを歩く』、69~70頁。

  5. 田中『プラハを歩く』、70頁。『地球の歩き方』、91頁。



第4章 マラー・ストラナ(Malá Strana 小地区)

 マラー・ストラナは、フラチャヌィの丘からヴルタヴァ川に至る斜面に広がるエリアである。プラハ城の城下町として発展した。

 8世紀頃には、すでに市場が数ヵ所も開かれ、市場を中心に集落が形成されていた〔1〕。12世紀以降、ドイツ人の東方植民が活発になると、チェコ王国は入植者を積極的に受け入れていった〔2〕。
 1257年、チェコ国王プシェミスル・オタカル2世(Přemysl Otakar Ⅱ 在位:1253~78)は、入植者のための新たな町の建設に着手した。国王の採った方法は、もともと住んでいたチェコ人の農民たちを周辺の村へと強制的に移住させ、代わりに外国人の入植者たちに新たな町の建設を許可するというものであった〔3〕。マラー・ストラナは、こうして建設された町である。

 マラー・ストラナの面積は26haで、旧市街と同じく、周囲を市壁が囲んでいた。
 当初、このエリアは「プラハ城下の新市(Nové Město pod Hradem pražským」と呼ばれていた。しかし、対岸の旧市街よりも町の規模が小さかったことから、14世紀末には「より小さなプラハ市(Menší Město pražské)」と名前が変わり、最終的には「小地区(Malá Strana)」に落ち着いた〔4〕。


 マラー・ストラナの入植者の大部分はドイツ人で占められており、彼らには商工業に関する特許状や免税といった特権が認められていた〔5〕。プラハに移住したドイツ人たちは、聖職者や市議会議員などの重要な職に就き、商業や貿易を独占するようになった。

 このような外国人に対する優遇政策は、地元チェコ人たちの強い反発を招いた。1310年代末頃に成立し、チェコ語の韻文で書かれた『ダリミルの年代記』(作者不詳)には、次のように記されている〔6〕。

「王〔プシェミスル・オタカル2世〕はチェコ人を重んじなくなり、町や村をドイツ人に分け与え始めた。ドイツ人のために城壁を作って保護してやり、大領主たちを苦しめるようになった・・・・・・。自分の民族を大切にしなかったことは、王として哀しいことではないか。王が名誉と広大な所領を手に入れることができたのは、自分の民族のおかげではないか」

 『ダリミルの年代記』の序文には、「自分の国を知り、それを幸福のために寄与させる努力を惜しまぬ者は誰でも学べるように。〔中略〕国が名誉に包まれて敵の息の根が止まるように」とある。作者は、チェコ人の由来とその名誉ある歴史を正しく伝えるために、この年代記を執筆したと述べており、外敵(ドイツ人)に対して団結するようチェコ人を促している。

 この作者は、チェコ人貴族の階層に属する人物だと考えられている。年代記の全体を通して、貴族層への共感と都市民への嫌悪感が顕著である〔7〕。


 マラー・ストラナの領域は、14世紀には4倍に拡大した。ところが、フス戦争(1419~36)や1541年の大火の影響で、町の3分の2が焼失してしまう。その後、復興する過程で、多くの建物がルネサンス様式によって再建された。
 1620年のビーラー・ホラの戦い(Bitva na Bílé hoře)によってハプスブルク家のチェコ支配が強化されると、同家の貴族たちによって、バロック様式の宮殿が建設された〔8〕。

 旧市街が主に商人や職人の住む町であったのに対し、マラー・ストラナは主に貴族や聖職者の住む町であった〔9〕。


【第4章 注】

  1. 田中『プラハを歩く』、120頁。

  2. 田中『プラハを歩く』、120~121頁。

  3. 田中『プラハを歩く』、121~122頁。

  4. 石川『黄金のプラハ』、104頁。田中『プラハを歩く』、121~122頁。

  5. 田中『プラハを歩く』、122頁。

  6. 田中『プラハを歩く』、122頁。藤井真生「中世チェコにおける王国共同体概念」(『史林』第85巻第1号、2002年1月)、91頁。

  7. 藤井、前掲論文、91頁。

  8. 田中『プラハを歩く』、124頁。

  9. 田中『プラハを歩く』、120頁。



第5章 新市街(Nové Město)

 新市街は、旧市街を囲むようにして広がるエリアである。ルクセンブルク家出身のチェコ国王で神聖ローマ帝国皇帝カレル4世(Karel Ⅳ 在位:1346~78)の主導で建設された。

 カレルが王位に就いた頃のチェコ王国は、慢性的な財政問題を抱えており、プラハの町も荒廃していた。そこでカレルは、積極的な外交政策を展開していく。自分の息子たちにはバイエルン公やハンガリー国王の娘を娶らせ、娘たちはオーストリアのハプスブルク家に嫁がせた〔1〕。
 こうした政略結婚によって、カレルはチェコ王国の拡大を図ったのである。


 神聖ローマ皇帝でもあったカレル4世は、プラハを帝国の首都と定め、大規模な都市整備事業を実行していった。プラハ司教区を大司教区へと昇格させ、中欧で最初の大学であるカレル大学を設立した。プラハ城を増改築し、聖ヴィート大聖堂(Katedrála svatého Víta)やカレル橋(Karlův most)など、多くの宗教的・世俗的建造物をつくらせた〔2〕。
 カレル4世以降、チェコ国王の戴冠式は聖ヴィート大聖堂で行うという慣習も成立した〔3〕。

 ヴルタヴァ川に架かるカレル橋は、建築家ペトル・パルレーシュ(Petr Parléř 1333頃~1399)によって設計された。全長515.7m、幅が9.5mあり、15のアーチの上に砂岩の切石からなる橋桁が渡されている〔4〕。
 1342年、ヴルタヴァ川の洪水で運ばれた氷塊により、それまで同河川に架かっていたユディタ橋が破壊されてしまった。臨時の木橋がつくられた後、1357年より新たな橋の建設が始まり、1402年に完成した。この橋は当初、「プラハ橋」と呼ばれていたが、1870年にカレル4世にちなんで「カレル橋」と改名された〔5〕。


 カレル4世の都市整備事業により、プラハの人口は増加した。その結果、従来の旧市街やマラー・ストラナだけでは、増加する人口を抱えきれなくなった。さらに、この頃には、市街地の火災やヴルタヴァ川の氾濫被害などが頻発していた。
 これらを受けて、1348年、旧市街に隣接して新たな居住区を建設することが決定した〔6〕。これが現在の新市街である。


カレル4世時代のプラハ
田中『プラハを歩く』、142頁。


 新市街の面積は約360haで、旧市街の約2.5倍の規模を誇る。町を取り囲む市壁の長さは3.5㎞にも及び、市壁には高さ10m、幅5mの門が四ヵ所つくられた〔7〕。
 旧市街とは異なり、新市街には格子状の幅の広い道路が配置された。現在でも、旧市街には曲がりくねった道路や複雑に連結する小路が多いのに対し、新市街には直角に交わる道路が多いのは、このためである〔8〕。

 さらに、広大な庭園やワイン用のぶどう園なども建設された。現在の新市街には、ヴィノフラディ(Vinohrady ぶどう園)と呼ばれるエリアがある。かつてここに、ぶどう園が存在したことを地名は物語っている。


 新市街に土地を獲得した者は、18ヵ月以内に家を建てることを義務づけられていた。しかし同時に、新市街に移住した者には、税金が12年間免除された〔9〕。
 ハンマーなどを用いる職人や麦芽製造者など、騒音や悪臭を伴う手工業者たちは、強制的に新市街へと移住させられた。この結果、新市街では低所得層の住民(主にチェコ人)が優勢になり、高所得層の住民(主にドイツ人)が優勢の旧市街とは一線を画した〔10〕。


 新市街には、三つの広場が旧市街側から放射状に整備された。穀物市場、馬市場、家畜市場であり、それぞれ現在のセノヴァージュネー広場(Senovážně náměstí 干し草量り広場)、ヴァーツラフ広場(Václavské náměstí)、カレル広場(Karlovo náměstí)に相当する。各広場に面して、記念碑的な教会も建設された〔11〕。

 ヴァーツラフ広場は、長さ750m、幅60mの大通りである。ここは市民の公開討論の場でもあったため、多くのデモが行われた。1918年のチェコスロヴァキア独立、1968年の「プラハの春」、1989年の「ビロード革命」といった歴史的事件において、ヴァーツラフ広場はその主要な舞台となってきた〔12〕。


 新市街の形成により、プラハはヨーロッパでも有数の大都市へと変貌した。
 14世紀のヨーロッパの主な都市の面積を見てみると、パリは439ha、ケルンは400ha、ウィーンは110ha、フランドル地方(現在のベルギー)のヘントは566ha、ブルッヘは430haである。これらに対し、プラハは700haの面積を誇った。当時のヨーロッパにおいて、プラハよりも規模の大きな都市はローマのみであった。〔13〕。

 カレル4世の時代に、プラハは最盛期を迎える。人々はこの町を「黄金のプラハ」と称するようになった〔14〕。


【第5章 注】

  1. 田中『プラハを歩く』、145頁。

  2. 石川『黄金のプラハ』、107頁。

  3. 田中『プラハを歩く』、145頁。

  4. 田中『プラハを歩く』、100~101頁。

  5. 石川『黄金のプラハ』、108頁。

  6. 田中『プラハを歩く』、145頁。

  7. 田中『プラハを歩く』、141頁。

  8. 石川『黄金のプラハ』、109頁。

  9. 田中『プラハを歩く』、143頁。

  10. 石川『黄金のプラハ』、109頁。田中『プラハを歩く』、143頁。

  11. 石川『黄金のプラハ』、109頁。田中『プラハを歩く』、142頁。

  12. 石川『黄金のプラハ』、213~215頁。片野・須貝『図説 プラハ』、58~61頁。

  13. 石川『黄金のプラハ』、110頁。田中『プラハを歩く』、141頁。

  14. 石川『黄金のプラハ』、107頁。



第6章 近代都市への変貌と人口一極集中問題

 1784年、ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(Joseph Ⅱ 在位:1765〜90)の勅令により、フラチャヌィ、マラー・ストラナ、旧市街、新市街は統合され、新たな「プラハ市」となった。ここから、近代都市としてのプラハの歩みが始まる。

 プラハ市は19世紀前半に産業革命を迎えた。それに伴い、交通機関が整備されていく。19世紀前半にはヴルタヴァ川において蒸気船の航行が開始され、1845年には市内に最初の鉄道が開通した〔1〕。

 四つのエリアが統合されて間もない頃のプラハ市の人口は、約7万6000人であった〔2〕。その後、産業の発達によって都市化が進行すると、周辺の農村からプラハ市に向かって、大量の人口が流入するようになった。
 しかし、プラハ市の範囲はカレル4世の時代からほとんど変わっておらず、増加する人口を吸収するためのキャパシティが不足していた〔3〕。流入する人口を市内だけでは抱えきれないという問題は、市の郊外に新たな町がいくつも形成されるという現象へと転換した。

 1850年時点でのプラハ市内の人口は12万1538人、郊外の人口は3万5695人であった。しかし30年後の1880年には、市内が17万7026人、郊外が13万7416人となっており、両者の差が縮まっているのがわかる。
 その後も、郊外の人口は増加の一途をたどっていく。そしてついに、1910年には市内が19万6549人、郊外が42万82人となり、郊外の人口が市内のそれを上回った〔4〕。


 人口の急激な増加は、住宅の過密状態を生み出した。これに対応するため、プラハ市内の再開発が急速に進められていく。

 旧市街の北部に隣接するユダヤ人地区にも、再開発の波が押し寄せた〔5〕。ここには中世以来、ユダヤ人のゲットーが存在していたが、18世紀後半、ユダヤ人に寛容であったヨーゼフ2世によって、同地区のゲットーは廃止された。同時にユダヤ人地区は、プラハ市の一部へと組み込まれた。
 これ以降、ユダヤ人地区はヨーゼフ2世の名前にちなんで「ヨゼフォフ(Josefov)」と呼ばれるようになる。

 19世紀後半になると、多くの貧しい人々がヨゼフォフへと移り住んだ。ヨゼフォフの面積は9.3haで、旧市街の10分の1以下の規模である。そこに大量の貧しい人々が流入した影響で、町はスラム化し、衛生状態は悪化した。
 1896年以降、ヨゼフォフの再開発が進められ、地区内にあった260軒の建物が取り壊された。20世紀初頭には、旧市街とヨゼフォフを結ぶパリ通り(Pařižká třida)が開通する。パリ通りは、近代都市プラハを象徴するものとなった。


 しかし、住宅過密問題を手狭なプラハ市内の再開発だけで解決することは、事実上不可能であった。郊外を含めた総合的な開発が必要であるという認識が、プラハ市当局内に広まっていく。そこから、都市行政の拡大、インフラの整備、税収の確保のため、郊外の町との合併による「大プラハ(Velká Praha)」構想が浮上した〔6〕。

 1918年10月22日、チェコスロヴァキア共和国が成立し、プラハ市は新国家の首都としての地位を確立した。翌月には、隣接自治体との代表者会議において「大プラハ」形成の合意がなされた。
 1922年、チェコスロヴァキアの初代大統領トマーシュ・マサリク(Tomáš Garrigue Masaryk 1850~1937)は次のように表明した〔7〕。

「私は、大プラハが共和国にとってどのような意味があるのか理解している。これは地理的な意味だけでなく、文化的、経済的にも意味がある。プラハを支援するために私はあらゆることをする」

 首都プラハの都市整備は、すでに一都市の問題の枠を越え、国家事業としての色彩を強めていたのである。


 1922年1月1日、プラハ市と近隣の37の自治体とが合併し、「大プラハ」が発足した。「大プラハ」の面積は約1万7189haに及び、旧プラハ市域の2101haから約8.2倍も拡大した。人口は67万6663人を数え、合併前の21万2219人から約3.2倍増加した〔8〕。

 増加する首都住民のために、新たに取り込んだ市域に住宅を建設することが求められた。それに合わせて、大規模な道路網や市電網も整備されていく。他にも、ヴルタヴァ川の護岸工事、公共施設の建設、郊外の緑地整備などが進められていった。

 それでも、プラハ市中心部の人口密度は、相変わらず高いままであった。
 1928年時点での世界の主要都市を見てみると、ロンドンは1haあたり306人、パリは350人、ニューヨークは442人であった。これらに対し、プラハの人口密度は1haあたり568人であった〔9〕。ここからも、当時のプラハがいかに過密な都市だったかが、よくわかる。

 もちろん、首都整備事業によって、住宅の過密状態は多少緩和している。1920年には1戸あたり4.1人の密度であったが、10年後の1930年には1戸あたり3.7人に減少した〔10〕。とはいうものの、その効果は限定的なものに留まった。


 その後も、プラハ市の人口増加の流れは止まらない。1930年には人口84万8081人を数えた〔11〕。
 1936年、チェコの第2代大統領エドヴァルド・ベネシュ(Edvard Beneš 1884~1948)は、「プラハは将来的に100万都市になることが見込まれる」と述べ、以下のような見解を示した〔12〕。

「首都の大きさは、国民と国家の大きさと適切な関係を持たなければならない。プラハ市の面積は広く、もし全域に建設がなされたら、私の考えでは首都、国民、国家の健全な関係が失われてしまう。プラハ〔の人口〕は100万で十分であり、量よりも質重視で建設されなければならない」

 先ほどのマサリクの発言と比較すると、首都プラハの整備構想が新たな段階に入ったことを窺わせる。


 2022年3月時点でのプラハ市の人口は128万8000人を数え、チェコ共和国の全人口1051万人のうち、約12.3%を占める〔13〕。首都プラハへの一極集中の流れは現在も続いていると言えよう。


【第6章 注】

  1. 石川『黄金のプラハ』、162頁。

  2. 石川『黄金のプラハ』、156頁。

  3. 石川『黄金のプラハ』、162頁。

  4. 森下嘉之「1920年代チェコスロヴァキア首都整備事業に関する一考察」(『東欧史研究』第31号、2009年3月、46頁)

  5. 片野・須貝『図説 プラハ』、23頁。田中『プラハを歩く』、225~226頁。

  6. 森下、前掲論文、44頁。

  7. 森下、前掲論文、45頁。

  8. 森下、前掲論文、45~46頁。

  9. 森下、前掲論文、48頁。

  10. 森下、前掲論文、48頁。

  11. 森下、前掲論文、46頁。

  12. 森下、前掲論文、51頁。

  13. チェコ基礎データ 外務省



おわりに

 プラハは、第二次世界大戦による被害をほとんど受けていない。そのため、中世以来の建造物の多くが破壊されずに残っている。他方で、近代以降の人口増加の影響により、市内には新興住宅地が数多く建設されている。プラハは決して中世で時間が止まったままの町ではない。

 プラハは、中世の面影を残す「古都」としての顔と、再開発や人口一極集中などの「近代都市」としての顔を合わせ持った町である。こうした特徴を念頭に置いた上で観光すれば、プラハという町に対する理解は、より踏み込んだものになるだろう。

(9532字)


【参考文献】

  • 石川達夫『黄金のプラハ ―幻想と現実の錬金術―』(平凡社選書、2000年)

  • 片野優・須貝典子『図説 プラハ ―塔と黄金と革命の都市―』(河出書房新社、2011年)

  • 田中充子『プラハを歩く』(岩波新書、2001年)

  • 内藤久子『チェコ音楽の魅力 スメタナ・ドヴォルジャーク・ヤナーチェク』(東洋書店、2007年)

  • 藤井真生「中世チェコにおける王国共同体概念 ―『ダリミルの年代記』の検討を中心に―」(『史林』第85巻第1号、2002年1月)

  • 森下嘉之「1920年代チェコスロヴァキア首都整備事業に関する一考察 ―プラハ都市開発委員会の『都市計画』構想―」(『東欧史研究』第31号、2009年3月)

  • 『地球の歩き方 チェコ・ポーランド・スロヴァキア 2020~2021年版』(ダイヤモンド・ビッグ社、2020年)

  • チェコ基礎データ 外務省




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