【期末レポート②】 ポルトガル人は鉄砲を伝えに来たのか?

 こんにちは。
 今回は、日本史の授業(2018年度春学期)で書いたレポートです。

 課題は、教科書に指定された『概論 日本歴史』(佐々木潤之介ほか、吉川弘文館、2000年)の中から授業で取り上げていない項目を1つ選び、調べてまとめ、自分の意見も添えるというもの。その際、『概論 日本歴史』以外の本を最低1冊は参照すること。
 分量は1200字程度。

 僕は、教科書の「外国から伝わった技術・文化」という項目から鉄砲伝来をテーマにして書いてみました。

 とはいうものの、今回のレポート課題は内心、面倒に感じていました。この授業はやたらに課題が多く、毎回の小レポートに加えて、期末レポートに期末試験までありました。毎回の課題はともかく、正直、期末の課題はレポートか試験のどちらか一つにしてほしいものですね。
 また、当時の自分は他の授業のレポート課題も抱えていて、むしろそちらの方に力を入れていたという事情もあります。

 したがって今作は、かなり手を抜いて書いています。内容も「鉄砲伝来」という歴史用語に難癖をつけているだけで、あまり深いことは語っていません。
 まぁ、手抜きのレポートって実際こういうものかと感じていただければ良いです。とはいえ、中身は本からの丸写しではなく、一応は自分の言葉でまとめたものになっています。

 それでは、どうぞ。


【注意】レポートの無断転載はご遠慮ください!!



2018年7月8日に作成

 外国から日本へ伝わった技術の一つに鉄砲がある。1542年または1543年に種子島に漂着したポルトガル人が伝えたとされる。日本史では「鉄砲伝来」と呼ばれる出来事である。
 しかし、この「伝来」という表現には疑問がある。そもそもポルトガル人は、初めから日本に鉄砲を伝えに来たわけではなかった。それでは、彼らは一体、何のために東アジアにやって来たのだろうか。

 ポルトガル人がアジアへ進出した理由は、香辛料を手に入れるためであった。
 15世紀後半のヨーロッパでは、香辛料の需要が拡大していた。通説では食肉の保存に香辛料が必要であったとされているが、医薬品として香辛料が珍重されていたとする説もある。
 いずれにせよ、寒冷な気候のヨーロッパでは香辛料を生み出す植物は育たない。そのため、ヨーロッパの人々はアジアから香辛料を輸入していた。しかし、従来の貿易ルートは多くの商人や運送業者の手を介していたため、途中で何度も商品に関税がかけられた。その結果、ヨーロッパに届いた段階では、香辛料の値段は高額になっていた。
 そこで、ヨーロッパの人々は直接アジアに赴いて、香辛料を安く手に入れようとした。1498年にポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマ一行がアフリカ大陸最南端の喜望峰を回ってインド西岸の町カリカットに向かったのには、こうした背景があったのである。

 インドに貿易拠点を築いたポルトガル人は、1511年には東南アジアのマラッカに進出した。
 16世紀のマラッカは、インド洋海域と南・東シナ海域の物産が集積する交通の要衝であり、東南アジアにおける国際的な商取引の中心地であった。マラッカを占領したポルトガル人は、中国産の絹織物や陶磁器を扱う貿易を行えば高い利潤を上げられることを知り、それらを求めて東アジアに乗り出していった。

 東アジアでは14世紀後半以来、明朝が海禁体制を敷いており、民間商人による貿易を禁じていた。一方で、倭寇などの密貿易を行う集団が東シナ海域で跋扈していた。
 16世紀前半に東アジア海域へと進出したポルトガル人は当初、明に正式の朝貢貿易を求めたが、認められなかった。そこでポルトガル人は、密貿易に従事する中国人商人と結びつき、中国産品をマラッカに運んで利益を得ようとした。
 このように、ポルトガル人は東アジアにおいて、多くの密貿易業者のうちの一勢力として貿易活動を行っていた。その最中に、意図せずポルトガル人は種子島に漂着したのである。こうした偶然の出来事の結果として、日本人は鉄砲の存在を知ったにすぎない。

 以上のことから、「鉄砲伝来」という表現は、ポルトガル人が初めから鉄砲の存在を知らせるために日本へやって来たという誤解を招きかねず、適切ではない。

(1117字)


【参考文献】
・羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)、50頁、69~70頁、113頁、122~124頁、128頁、256~259頁。



 以上になります。
 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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