![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/169149148/rectangle_large_type_2_eab460f423d19277daf1b7769dc2dc56.png?width=1200)
改訂版 プラハの歩み 【中編】 ~古都と近代都市の二面性~
前編は、こちら。
第4章 旧市街(Staré Město)
![](https://assets.st-note.com/img/1731995524-M2SsTx78HC3bzoAymJjeWEin.png?width=1200)
15番:カレル橋(Karlův most)
28番:火薬塔(Prašná brána)
17~20番:旧市街広場(Staroměstské náměstí)
28番から南西に伸びる道:ナ・プシーコピェ通り
旧市街(Staré Město)はヴルタヴァ川右岸に広がる街である。ここには早くから市場が開かれ、外国商人と地元住民との間で物資の交換が盛んに行われていた。11~12世紀には現在の旧市街広場付近に商人の居留地が成立し、税関(ティーン)も設置された。その周囲には宮殿や教会、修道院などが相次ぎ建てられた〔1〕。
ヴルタヴァ川右岸はプラハ城のある左岸に比べて低地が広がっている。そのため右岸の街は、川の氾濫にたびたび悩まされていた。そこでチェコ国王ヴァーツラフ1世(Václav Ⅰ 在位:1230~1253)は、1235年に右岸の街の整備を行った〔2〕。こうして成立したのが、現在の旧市街である。当時はプラハ市(Pražské Město)と呼ばれていた〔3〕。
![](https://assets.st-note.com/img/1730916551-fsKU2nrDVLgyv4pheEzwJik6.png)
田中充子『プラハを歩く』68頁。
整備された旧市街の面積は約140㏊、街の周囲は城壁で囲まれていた。城壁は全長1.7㎞、高さ10~12m、幅2mあった。門が13ヵ所あり、60mおきに塔が設置された。旧市街と新市街との境界に伸びるナーロドニー通り(上図の5~8番)の一角には、城壁の門と塔の一部が残っている〔4〕。
旧市街の東端には、「火薬塔(Prašná brána)」という高さ65mの建造物が現在も聳えている(上図の4番)。かつての城壁の門の一つである。元々は「新塔」と呼ばれていたが、17世紀に大砲の火薬庫として利用されたことから「火薬塔」の名がついた。火薬塔の建設は、建築家マチェイ・レイセク(Matěj Rejsek 1450頃~1506)によって1475年から開始された。途中、戦乱で中断を余儀なくされるものの、19世紀末に建築家ヨゼフ・モッケル(Josef Mocker 1835~1899)の手により完成した〔5〕。
![](https://assets.st-note.com/img/1738046159-5JNvA6ZMxLnYfeG9Ooqwruit.png)
薩摩秀登『チェコとスロヴァキアの歴史』27頁。
![](https://assets.st-note.com/img/1738046505-mlKP5hip4aHfgGjDVeLYzdsr.png)
訪れたときは絶賛改装工事中・・・。
2024年10月に撮影。
旧市街の城壁の外側には、幅25m、深さ8mの濠がつくられた。現在のナ・プシーコピェ通り(Na příkopě 濠の上の)は、1760年に濠を埋め立てて通された道路である〔6〕。
![](https://assets.st-note.com/img/1730916551-S1wQLkyC92Wxd3Fuqgjh7Oca.png?width=1200)
2024年10月に撮影。
旧市街の道路は、20世紀初頭の再開発でつくられたパリ通り(Pařižská)などを除き、不規則にカーブしたものが多い。
たとえば、カレル通り(Karlova)とセミナーシスカー通り(Seminářská)を見てみよう。前者はカレル橋と旧市街広場(Staroměstské náměstí)とを結び、後者はカレル通りとマリアーンスケー広場(Mariánské náměstí)とを結んでいる(下図参照)。
![](https://assets.st-note.com/img/1733471137-PdROZik8JUp23xDaEerXuyKN.png?width=1200)
セミナーシスカー通り(Seminářská)
どちらの道も幅が狭く、緩やかなカーブを描いている。特にセミナーシスカー通りは、道の曲がり具合や、両側の建物が道に背を向けて建つ様子などから、かつて川または水路だったと考えられる。
![](https://assets.st-note.com/img/1733391177-E8idHr6QoST9UbenLNx27l1k.png)
旧市街広場方面を望む。
2024年10月に撮影。
![](https://assets.st-note.com/img/1733472003-eh3vbLEodH6fNgw74lDnpYRF.png)
旧市街広場方面を望む。
2024年10月に撮影。
![](https://assets.st-note.com/img/1733391217-GCDI72Z6ykmiL8UQRvjSeb3w.png)
マリアーンスケー広場方面を望む。
川 or 水路の跡?
2024年10月に撮影。
旧市街広場(Staroměstské náměstí)
![](https://assets.st-note.com/img/1731996183-RQiNMakKgj1p7lHde5IVJrSF.png?width=1200)
2024年10月に撮影。
旧市街広場(Staroměstské náměstí)は旧市街の中央に位置する広場であり、プラハ全体の心臓部でもある。広場を囲むようにして、旧市街市庁舎(Staroměstská radnice)、ティーンの前の聖母教会(Kostel Matka Boží před Týnem)、聖ミクラーシュ教会(Kostel sv. Mikuláše)などが建つ。広場には、ヤン・フス像(Pomník Jana Husa)と聖母マリア柱像(Mariánský sloup)が佇んでいる。
旧市街広場はプラハの中心なだけあって、歴史上の出来事の舞台にもなった。三十年戦争初期の1621年には、前年のビーラー・ホラ(Bílá hora)の戦いに敗れたプラハのプロテスタント貴族27人が、この広場で処刑されている〔7〕。
![](https://assets.st-note.com/img/1732685730-y9DsRl2gTGIheNrLjKEmkS4o.png?width=1200)
中央奥:ティーン教会(ティーンの前の聖母教会)
薩摩秀登『チェコとスロヴァキアの歴史』35頁。
![](https://assets.st-note.com/img/1733130424-rv3NQXgUwHj51TBVFzhPoSZt.png)
中央奥:ティーン教会
左手前:旧市街市庁舎
『Prague』(World of Prague、出版年不明)
上の写真にあるように、20世紀初めには旧市街広場にも路面電車が走っていたようだ。しかし現在は廃止されている。
![](https://assets.st-note.com/img/1733130795-OVZGFrMkU9n7xjzHRPecS4Nf.png)
中央奥:ティーン教会
左手前:旧市街市庁舎
2024年10月に撮影。
![](https://assets.st-note.com/img/1732076153-KrckRUYS9JVlibeWxoFz0wfs.png?width=1200)
教会の裏に税関(ティーン)が置かれたことに由来。
2024年10月に撮影。
![](https://assets.st-note.com/img/1732957032-miWaEo09RIz3JUs5ryg8tAG1.png?width=1200)
手前はヤン・フス像。
2024年10月に撮影。
![](https://assets.st-note.com/img/1732076221-3qFbxCrYEh7NkpoQ0l6tJ8cv.png)
2024年10月に撮影。
旧市街市庁舎の北側は今では小さな公園になっているが、かつてはそこにも市庁舎の建物が存在していた。しかし1945年に、ドイツ軍の爆撃で市庁舎は大きな損傷を受けた。戦後、塔を含む市庁舎の主要部分は再建されたものの、北側にあった建物は復元されないまま現在に至っている〔8〕。
![](https://assets.st-note.com/img/1732685720-riLxOvu5eKwJCMtUE9hgWQ0y.png?width=1200)
中央の建物:旧市街市庁舎
田中充子『プラハ 建築の森』67頁。
![](https://assets.st-note.com/img/1732685850-clkugv3J2iDsjOXTmA6yd7rG.png?width=1200)
左側:旧市街市庁舎
右側:聖ミクラーシュ教会
右側奥:プラハ城
『Prague』(World of Prague)
![](https://assets.st-note.com/img/1732686021-zLCN1WvuiA0s5fOZH6gkXMYD.png?width=1200)
左側:旧市街市庁舎
右側:聖ミクラーシュ教会
2024年10月に撮影。
![](https://assets.st-note.com/img/1732076293-ylht5vHa6mc9VoEZNzgMADeJ.png?width=1200)
右隣の道路はパリ通り(Pařižská)
2024年10月に撮影。
ヤン・フス像(Pomník Jana Husa)
![](https://assets.st-note.com/img/1730916551-6jm7KOr2liQGeSsf5z93InZB.png?width=1200)
2024年10月に撮影。
ヤン・フス(Jan Hus 1372頃~1415)は15世紀初め、プラハを拠点にしてカトリック教会の変革を強く訴えた人物である。そのことで彼は教会側から異端視され、コンスタンツ公会議(1414~1417)にて火刑に処された。その後、フスの考えに賛同する人々(フス派)が立ち上がり、神聖ローマ皇帝の派遣する軍隊と衝突した。フス戦争(1419~1436)である。
当時のカトリック世界は、教会に富と権力が集中し、教皇が複数並び立って互いに権力闘争に明け暮れるなど、混迷を極めていた。フス自身は純粋に宗教的な動機から、こうした教会のあり方に一石を投じたのである〔9〕。
しかし19世紀にチェコで民族運動が盛んになると、フスの主張は政治的な意味を帯びていく。宗教改革の先駆者、チェコ語で説教を行いチェコの民衆に直接語りかけた民族文化の擁護者、古代スラヴの民主主義を復活させようとした改革者、貴族や教会による封建支配に抵抗した人民の指導者など、19世紀チェコに生きる人々の様々な理念や期待がフスの人物像に投影されていった〔10〕。
これらの理念を可視化したのが、旧市街広場のヤン・フス像である。フスの没後500年目にあたる1915年、彫刻家ラジスラフ・シャロウン(Ladislav Šaloun 1870~1946)によって制作された〔11〕。
19世紀の人々から見たフスやフス戦争のイメージを音楽にしたのが、スメタナ『わが祖国』の第五曲「ターボル(Tábor)」である。ターボルはフス派の拠点となった街であり、のちにチェコ民族復興の聖地とされた。
「ターボル」では、フス派のコラール(讃美歌)「汝ら神の戦士らよ(Ktož jste boží bojovníci)」が繰り返し演奏される〔12〕。この旋律は、第六曲「ブラニーク(Blaník)」にも再び現れる。
![](https://assets.st-note.com/img/1730916551-PzAjR0wtHxhpoEbyeJsXGVYQ.png)
内藤『チェコ音楽の魅力』82頁。
スメタナは次のように解説している。
「曲全体はフス派のコラールに基づく。ターボルの地はフス派の主要な根拠地である。疑いなくこのコラールは最も力強く頻繁に聞こえてくるに違いない。この曲はフス教徒たちの決定と意志の力を表している。また彼らの頑強な闘争、その恐れのなさ、忍耐力、妥協のない態度、それらはとくに象徴的な詩の最後で強調される。楽曲は詳細に区分されず、フス教徒たちの誉れ・偉大さ・性格の強さを讃えている」
カレル橋(Karlův most)
![](https://assets.st-note.com/img/1733132046-fqaxRg9w1zSrsMnbUB0VPXOy.png?width=1200)
左岸:マラー・ストラナ
右岸:旧市街
カレル橋はプラハを代表する橋であり、旧市街とマラー・ストラナとを結ぶ。全長515.7m、幅が9.5mあり、15のアーチの上に砂岩の切石からなる橋桁が渡されている〔13〕。
![](https://assets.st-note.com/img/1732250373-3t7l9TryHVMKUhXvdfwcSRGe.png?width=1200)
旧市街側から望む。
2024年10月に撮影。
![](https://assets.st-note.com/img/1733812307-nrJmtsQTF2fLORwixkS6zZM7.png?width=1200)
マラー・ストラナ側から望む。
2024年10月に撮影。
カレル橋がつくられる以前、この場所には「ユディタ橋」という橋が架かっていた。しかし1342年に、ヴルタヴァ川の洪水で運ばれた氷塊によって、ユディタ橋は流されてしまう。その後しばらくは木製の橋が臨時に架けられていたが、時のチェコ国王カレル4世によって新たな橋の建設が決まった。1357年に建設工事が始まり、1402年に完成した〔14〕。橋の設計は、当時の著名な建築家ペトル・パルレーシュ(Petr Parléř 1333頃~1399)が担当した。彼は同時期に聖ヴィート大聖堂の改築も行っている〔15〕。
新しい橋は長らく「プラハ橋」と呼ばれていたが、1870年に「カレル橋」と改められた。プラハの発展に寄与したカレル4世の名にちなんだものである〔16〕。
![](https://assets.st-note.com/img/1733131373-k57jLgOneN1Ali0ZfTXhCYuP.png?width=1200)
マラー・ストラナ側から望む。
田中『プラハ 建築の森』69頁。
![](https://assets.st-note.com/img/1732250924-aTWxuHz3MyJZeDvp0VXwYojG.png)
対岸の奥はプラハ城。
『Prague』(World of Prague)
![](https://assets.st-note.com/img/1732250715-hgZrGvB8eFVybmc1q0pXAHD4.png?width=1200)
この当時は車両も通行していたが、現在は歩行者のみ通行可。
『Prague』(World of Prague)
![](https://assets.st-note.com/img/1732251059-hZ9JewiuzmtgKfy27N5LW1Is.png?width=1200)
右奥はプラハ城。
2024年10月に撮影。
【第4章 注】
石川達夫『黄金のプラハ』102~103頁。片野優・須貝典子『図説 プラハ』15頁。
田中充子『プラハを歩く』69頁。
石川『黄金のプラハ』103頁。
田中『プラハを歩く』69~70頁。
田中『プラハ 建築の森』61頁。
『地球の歩き方 チェコ・ポーランド・スロヴァキア 2025~26』91頁。田中『プラハを歩く』70頁。
片野・須貝『図説 プラハ』16頁。
田中『プラハを歩く』76頁。
薩摩秀登『物語 チェコの歴史』(中公新書、2006年)80~84頁。
薩摩秀登・阿部賢一(編)『チェコを知るための60章』107頁。
田中『プラハを歩く』83頁。
内藤『チェコ音楽の魅力』80~82頁。
田中『プラハを歩く』100~101頁。
石川『黄金のプラハ』108頁。
『地球の歩き方 チェコ・ポーランド・スロヴァキア 2025~26』67頁、73頁。
石川『黄金のプラハ』108頁。
第5章 新市街(Nové Město)
新市街は、旧市街の外側に広がる街である。ルクセンブルク家のチェコ国王で神聖ローマ帝国皇帝のカレル4世(Karel Ⅳ 在位:1346~1378)の主導で建設された。
![](https://assets.st-note.com/img/1733131218-a4sjiA23W1m8HZvGBh5KJXDQ.png)
カレル橋の旧市街側の広場に建つ。
2024年10月に撮影。
即位したカレル4世は積極的な外交政策を展開していく。自分の息子たちにはバイエルン公やハンガリー国王の娘を娶らせ、娘たちはオーストリアのハプスブルク家に嫁がせた〔1〕。こうした政略結婚によって自家の拡大を図ったのである。
![](https://assets.st-note.com/img/1730916552-UvrITp3W0b4hyQJogi5XeaF7.png?width=1200)
『地歴高等地図』(帝国書院、2021年)46頁。
カレル4世が即位した頃のチェコ王国は慢性的な財政問題を抱えており、プラハの街も荒廃していた。カレル4世はプラハを神聖ローマ帝国の首都と定め、大規模な都市整備事業を実行していった。プラハに置かれていた司教区を大司教区へと昇格させ、中央ヨーロッパで最初の大学であるカレル大学を設立した。旧市街とマラー・ストラナとをつなぐカレル橋(Karlův most)を建設し、プラハ城内の聖ヴィート大聖堂(Katedrála sv. Víta)の増改築を行った〔2〕。
なお、カレル4世以降、チェコ国王の戴冠式は聖ヴィート大聖堂で行うという慣習が成立した〔3〕。
カレル4世の都市整備事業によってプラハの街は復興し、人口も増加した。その結果、従来の市街地だけでは増えゆく人口を抱えきれなくなった。そこで1348年、旧市街に隣接して新たな街をつくることが決まった〔4〕。こうして出来上がったのが、現在の新市街(Nové Město)である。
![](https://assets.st-note.com/img/1730916551-7039HWNklzBvDACQUhtGfMbo.png)
田中『プラハを歩く』142頁。
新市街の面積は約360haに及び、旧市街の約2.5倍の規模を誇る。街を囲む城壁の長さは3.5㎞にも及び、城壁には高さ10m、幅5mの門が4ヵ所つくられた〔5〕。
新市街には、旧市街側から放射状に三つの広場が整備された。穀物市場、馬市場、家畜市場である。それぞれ、現在のセノヴァージュネー広場(Senovážně náměstí 干し草量り広場)、ヴァーツラフ広場(Václavské náměstí)、カレル広場(Karlovo náměstí)に相当する〔6〕。
また、広大な庭園やワイン用のぶどう園などもつくられた。現在の新市街の東側には「ヴィノフラディ(Vinohrady ぶどう園)」という地区がある。かつてここに、ぶどう園が存在していたことの名残である〔7〕。
新市街に土地を獲得した者は、18ヵ月以内に家を建てることを義務づけらた。だが同時に、新市街に移住した者には税金が12年間免除された〔8〕。ハンマーを用いる職人や麦芽製造者など、騒音や悪臭が発生する作業を行う人々は、強制的に新市街へ移住させられた。
こうして、新市街では低所得層の住民(主にチェコ人)が優勢になり、高所得層の住民(主にドイツ人)が優勢の旧市街とは一線を画した〔9〕。カレル4世は旧市街を商業中心の街に、新市街を手工業中心の街にすることで、人口の分散を図ったのである〔10〕。
新市街の成立により、プラハはヨーロッパでも有数の大都市になった。14世紀当時のヨーロッパの主な都市の面積を見てみると、フランスのパリは439ha、ドイツのケルンは400ha、オーストリアのウィーンは110ha、フランドル地方(現在のベルギー)のヘントは566ha、ブルッヘは430haである。これらに対し、プラハは700haに及んだ。当時のヨーロッパでプラハよりも大きな都市はローマだけであった〔11〕。
14世紀のプラハの人口は約4万人と推定されている。人口の面でも、プラハはアルプス以北の都市の中で最も多かった〔12〕。
カレル4世の時代にプラハは最盛期を迎える。人々はこの街を「黄金のプラハ(Zlatá Praha)」と呼んだ〔13〕。
![](https://assets.st-note.com/img/1735079631-qhBMPVmHvopjeO81FX2wIcn3.png?width=1200)
中央奥:プラハ城
中央手前:ヴィシェフラド
右側:旧市街と新市街(かなり省略して描かれている)
薩摩『チェコとスロヴァキアの歴史』28頁。
その後のプラハはフス戦争(1419~1436)や三十年戦争(1618~1648)などの舞台となるなど、時代の波に翻弄されていく。そんななか、街の規模はカレル4世の時代から500年近く変わらずにいた。それが大きく転換するのは、産業革命を迎えた19世紀のことである。
ヴァーツラフ広場(Václavské náměstí)
![](https://assets.st-note.com/img/1733045584-n1ZRQmJuwoEGbMUqliS6aF9N.png?width=1200)
左上:旧市街(Staré Město)
右端:プラハ中央駅(Praha hlavní nádraží)
![](https://assets.st-note.com/img/1732251342-zjpI1HKX738QnOEcSZWTbDRi.png?width=1200)
旧市街方面を望む。
2024年10月に撮影。
ヴァーツラフ広場(Václavské náměstí)は、長さ750m、幅60mの大通りである。元々は馬市場であったが、市民の公開討論の場としても利用された。そのため、政治的な節目の際には多くのデモがここで開かれた。1918年のチェコスロヴァキア独立、1968年の社会主義改革運動(プラハの春)、1989年の民主化運動(ビロード革命)などの歴史的事件において、ヴァーツラフ広場はその主要な舞台となってきた〔14〕。
![](https://assets.st-note.com/img/1732251244-v1PEzBVucdHyM5Lfnhg6CZQ8.png?width=1200)
旧市街方面を望む。
左奥:プラハ城
田中『プラハ 建築の森』223頁。
![](https://assets.st-note.com/img/1732252760-fZvH51ioQn34cdRrAWBPlhuK.png?width=1200)
マサリク(チェコスロヴァキア初代大統領)の凱旋。
石川『黄金のプラハ』215頁。
![](https://assets.st-note.com/img/1732252700-OwshbDnu037UmzMa68cx4XCE.png?width=1200)
中央奥:国立博物館(Národní muzeum)
『Prague』(World of Prague)
![](https://assets.st-note.com/img/1732253150-c9Xi3tAxDg5ELwFaW7q84lG1.png)
ソ連の軍事介入に抗議する人々。
この後、ソ連軍の戦車が広場に侵入し占拠する。
田中『プラハ 建築の森』223頁。
![](https://assets.st-note.com/img/1732253810-mJqDsfY72gpVR5QPbXtTLhow.png?width=1200)
中央奥:国立博物館
2024年10月に撮影。
![](https://assets.st-note.com/img/1732252397-u8FAVx6lX9QBngZk0rJKdCm7.png?width=1200)
逆光で見えづらい・・・。
2024年10月に撮影。
【第5章 注】
田中『プラハを歩く』145頁。
石川『黄金のプラハ』107頁。
田中『プラハを歩く』145頁。
田中『プラハを歩く』145頁。
田中『プラハを歩く』141頁。
石川『黄金のプラハ』109頁。田中『プラハを歩く』142頁。
石川『黄金のプラハ』109頁。
石川『黄金のプラハ』109頁。田中『プラハを歩く』143頁。
石川『黄金のプラハ』109頁。田中『プラハを歩く』143頁。
田中『プラハ 建築の森』75~76頁。
石川『黄金のプラハ』110頁。田中『プラハを歩く』141頁。
石川『黄金のプラハ』110頁。
石川『黄金のプラハ』107頁。
石川『黄金のプラハ』213~215頁。片野・須貝『図説 プラハ』58~61頁。
〈後編につづく〉