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【小説】『風の二番地から』3

 葉子は肩幅が広く、体格のがっちりした女で、後ろ姿がとてもたくましい。幼い頃から眼鏡をかけていたせいか、目付きはあまりよくない。肉の詰まった頬は、ピッチリと張っている。
 親分肌の気質があって、グループではいつもリーダー的存在だった。同輩よりも、後輩を捕まえては、あれやこれやと面倒を見るのが好きみたいだった。
 友達は彼女の長い髪を「きれいだ」と言って褒めた。
 俺は別の友達と、彼女の事を“ブタまん”と言っては大笑いしていた。
 葉子と初めて会った時、俺は彼女の顔を直視する事が出来なかった。場の都合上、何度か葉子とも話を交わしたが、視線はずっと下を向いていた。
 しかしある時から、俺は猛烈に彼女に魅かれるようになった。
 俺のグループと彼女達のグループが交際を続けてから半年経った夏の日の事、俺は街で偶然、TシャツにGパンと云うラフな格好の葉子に会った。それまで学校で葉子の制服姿しか見た事のなかった俺は、その違和感に思わず我を忘れて彼女を見た。
 Tシャツから透けて見えるブラジャー。その豊満な胸。そして彼女の汗。
 俺は彼女の“肉”と云う存在に対して、溢れるほどの独占欲に襲われた。
 その時、初めて彼女の顔を直視した。彼女の中に引き込まれてしまいそうになった。“ブタまん”と彼女を初めて認識したのもこの時だった。
 葉子は高校を卒業すると、小さな出版社で校正の仕事をやるようになった。貯金が出来て、少し落ち着いてから彼女はアパートを借り、一人暮らしを始めた。
 それまであちこちの友達の家にいそうろうして、へたり込んでいた俺は“まぐろ”と呼ばれていた。
 俺は葉子を自分の恋人だと思っていたが、彼女が俺を恋人だと認めていたかは定かではない。唯、彼女のアパートに居座る事に対して、特に何も言わず許してくれた。
 彼女と同棲してからも、俺は相変わらずまぐろの生活を続けていた。その頃の俺の楽しみと言ったら、葉子の膝枕の上で寝入る事だった。
 葉子は占いが趣味で、占いなら何でも手をつけていた。彼女が一番信じていたのは、タロットによる占いで、それは他の占いでもそうだが、タロットの場合は特に、占う人間の直感やイマジュネーションによる所が大きいからだと言っていた。
 タロットは、同じカードでも占う人間によって、かなり違う意味合いになる。例えば「死神」のカード。これは勿論“週末”を意味するよくないカードであるが、カードに彼方から太陽が上がる絵が描かれている為、時としてまだ希望があると云う意味合いに取れたりする。
 だから他のカードとの組み合わせと、占い師のインスピレーションとでいくらでも占いの意味は変化する。従って占う人間には、普段からインスピレーションを養っておく事が必要とされる。
 葉子は周りが何と言おうと、自分には普通の人間以上にインスピレーションがあると信じていたし、それを鍛える為に、普段から自然を撮った写真や、風景画に見入っていることが多かった。
 俺は彼女に占ってもらった事はない。彼女も自分から俺を占おうとはしなかったし、俺達二人の事も占わなかった。
 俺は単に、もし俺達二人の事を占って、悪い結果が出たら、と云う事を彼女が恐れているのだと思い込んでいた。勿論、彼女にそれを問い詰めた事はなかったので、実際の所は解らない。
 彼女と同棲を始めて初めの頃は、食事やら部屋の掃除やら全部彼女がしてくれたが(特に部屋の掃除は、あまり俺に自分のものを触られたくないというので、随分マメにやっていた)一月も経たないうちに、みんな俺の仕事になり、少なくともまぐろと言われなくなった。
 俺は毎朝、きっちりと決まった時間に起き、彼女を起こし、朝食の準備をして、二人で食事し、それが済むと出社する彼女を見送った。
 それから朝のワイドショーを少し見て、部屋の掃除と洗濯。それが済むとぶらぶらと近くを散歩。
 たまにレンタルビデオ店に入って、DVDを借りた。
 大抵アクションもので、その中でもお気に入りは刑事ものか、SFアクション。たまにバラエティやお笑い。大体、一回につき、四、五枚借りたが、半分は葉子の為のものだった。
 葉子のお気に入りは、ウィル・スミスとヴィン・ディーゼルで、その二人の主演作のDVDが出ると聞けば、店に予約し、なおかつその日一番で借りに行った。
 ビデオ屋を出ると、コンビニに寄り、ビデオを観る時に食べる菓子を買い、たとえ冬でもアイスを買って、それを頬張りながらアパートに帰った。アイスは大抵チョコ入りモナカで、丁度、食べ終わるぐらいにアパートに着く。部屋に入ると、コーヒーを炒れ、さっそく借りてきたビデオを観る。
 それを観終えるとそろそろ陽も暮れてくる頃なので、洗濯ものを取り込み、風呂の準備をし、夕飯の支度を始めた。
 食事は、葉子もあまり得意ではなかったので、本やネットを見て一通りの事を学んだ。しかし俺の一番好きな料理は、お好み焼きである。。これだと料理の腕に左右されないし、何より一応具だけ揃えておいて、後で葉子と一緒にゴチャゴチャやりながら鉄板の上で、二人でお好み焼きを作る楽しさは何とも言えない。
 唯、葉子が帰ってくる時間がバラバラだったので、タップリ時間をかけて楽しむお好み焼きは、めったな事ではやれなかった。
 葉子の担当している雑誌は、地方のタウン誌で、月一発行の月刊誌だった。
 ある時、葉子の占い熱が周りにも行き渡ったのか、葉子は校正の仕事と並行して、占いのコーナーを担当する事になった。その頃になると、もうタロットにこだわっている様子もなく、あらゆる占いの本をひまさえあれば読みあさっているようだった。
 そのうち葉子は後輩達と怪しげな霊媒会を開くようになり、週に一度は後輩の家に出かけて行った。家に帰ってきても、電気を消し、テーブルの上にろうそくを立てて、何やら神経を際立てていた。ちょっかいを出すと怒るので、俺は大抵さっさと一人で寝床に入っていた。
 寝床に入って、しばらくは布団の中から葉子の様子を見ていた。
 メラメラと揺らぐろうそくの炎。
 葉子の背中が影になっている。
抑えきれなくなって、ある日、彼女が怒るのを承知で、彼女の背中にかぶりつこうとした。
 あっと思った。部屋の隅で、にわとりがククッと歩いている。
 一歩、二歩、三歩。
 翌日、葉子はフライドチキンを大量に買い込んできた。どうしたの?と聞くと、葉子はチキンを口にしながら、チキンが食べたかったの、とそれだけ答えた。食べるのに忙しいようだった。
 それから葉子は鶏肉しか食べなくなった。俺は同じ鶏肉でもせめて調理の方法だけは変えてあげようと、本やネットで得た知識で出来うる限りの調理法をしてやった。彼女はどんな調理をしてもよく食べた。食べても食べても飽きないようだった。
 ある日、俺は葉子と二人でビデオ屋に出かけた。トム・クルーズやキアヌ・リーヴスの新作がズラッと並んでいたが、結局お互い観たいものがなくて、何も借りずにビデオ屋を出た。その帰り道、ぶらりと小学校に寄った。
 子供が二人凧を上げていた。凧だ、凧だ、今日は意地でも酢だこを食うぞと俺は思った。
 ふと葉子を見ると、彼女は鳥小屋の前に突っ立っていた。憑かれたようににわとりの様子を眺めていた。
 女の子が一人ポツンとブランコで遊んでいた。あの子は確かユキと云う名前の女の子だった。
 俺は帰ると酢だこを飽きるほど食べた。
 葉子は大量のフライドチキンを食べ尽くした。まだまだ食べ足りないようだった。
 相変わらず葉子はろうそくの前で、妄想にふけっていた。俺はその度に、葉子の背中にかぶりつこうとした。すると、いつも部屋の隅ににわとりが現れる。
 コ、コ、コ、
 一歩、二歩、三歩。
 一匹、二匹、三匹。
 とさかがあるので雄鶏だ。しかしそのとさかも、なんかしおれてて、情けないと思う。
 翌日、一人で小学校の鳥小屋へにわとりを見に行った。プラスチックの容器に入った餌を食べながら、薄汚れたケツを俺に向けていた。
 突然、影に隠れていたにわとりが、羽をバタつかせて飛び上がった。
 「うわぁっ!」
 しかしそれで終わりだ。にわとりは空を飛べない。
 腰を抜かした俺を前に、そいつは餌を食べ始めた。
口をモグモグさせながら、周りをキョロ、キョロと見渡す。
 コォッコと鳴いた。
 帰ろうと思った。
 その晩、夢を見た。
 山の崖っぷち。
 一羽のにわとりが谷底に向かって放たれる。その瞬間から始まる。一生懸命羽を動かすが、真っ逆さまに落ちていくる。バタバタ、バタバタと。
 奴等は空を飛べない。
 思わずにわとりを抱えるような仕種をする俺。
 目が覚めると、葉子が俺の上になり、激しく腰を動かしている。
 こんな激しい葉子は初めてだった。その迫力に圧倒されながら、俺は無我夢中で葉子の乳房を握りしめ、しゃぶりつき、いつの間にか、彼女の世界に溶け込んでいく。

 ……いつものように。

 ……彼女の肉に。

 朝陽が差し込んでいた。部屋の中に、にわとりの羽が一面舞い散っていたる
 葉子はもういなかった。
 俺は歩き出した。
 国道沿いの道が車でごった返し、空気があまりにも悪い。薄汚れたワゴン車に疲れた顔をして乗り込んでいる、土木作業員の男達。これから現場に向かうのだろう。


 似たようなワゴン車が一台、コンビニの前で止まった。作業服を着た男が二人、車から降りて、コンビニの中に入っていった。
 コートを羽織った人達が、一途に同じ方向に歩いている。
 俺はコンビニの中へ入った。主婦のような店員が「いらっしゃいませ」と元気な声で挨拶する。
 俺はアイスボックスを見る。チョコ入りモナカのアイスが見当たらなかった。たってもどうせ食べるつもりはない。
 コンビニを出て、再び歩き出す。先刻のワゴン車はもうない。
 ある道で折れて、しばらく歩くと、住宅街の中に出た。静かだった。何も起こらなかった。一体、これがいつまで続くのだろう、そう思いながら、俺は歩き出した。
 陽はよく照っていた。
 ラジオの音が聞こえた。
 自転車に乗っている主婦に出会った。
 彼方の車の騒音が聞こえた。それに混じって電車の音も聞こえた。
 そのうち陽が暮れていった。
 ラーメン屋に入った。
 カウンターに腰かけている太った男は、ワンタンメンを注文し、その隣に腰かけている一見二枚目風の男はみそラーメンを注文した。
 サラリーマン風の男は少年雑誌を片手にニラレバ炒めを食べ、奥のテーブルで、バンドの人間が、スタジオの事で話をしていた。
 食べ終わって店を出ると
 「ちょっと、お兄さん」
 銭湯に行って来たのか、髪の毛をタオルで巻き、たらいを手にしたおばさんに、俺は突然呼び止められた。
 「私、ここで豆腐屋やってるんですけど、銭湯行ってる間に娘が帰ってきたらしくて、お母さんもう寝ちゃったと思って鍵閉められちゃったのよ。大声出しても、ほら、ヘッドホンしちゃって、聞こえないのよ。お願い、お兄さん、一緒にのぶこって、娘、呼んでよ」
 のぶこーと大声を出した。
 おばさんも一緒にのぶこーと叫んだ。
 「のぶこ、チョコレートくれって。ほらバレンタインだから」
 「のぶこォ、チョコレートくれー!」
 そうやって二人でのぶこを呼び続けた。
 しばらくして二階の電気が点いた。ごたごたとのぶこが動き出したようだった。
 「あ、のぶこ、のぶこ。お兄さん、どうもありがとう」
 俺は苦笑いして頷くと、立ち去ろうとした。
 「あ、娘を見てって」
 そう言ってくれたが、俺は断って、また歩き出した。
 国道にまたぶち当たったる
 タクシーがスピードを出して、ビュンビュン通り過ぎていく。
 たまにラーメン屋の明かりが見えた。
 路地で夜間工事をやっていたる
 リックを背負って、青年がサイクリング車で通り過ぎていく。
 また夜間工事の現場があった。もう終わりらしく、工事用のトラックに看板がいっぱい乗せてあり、警備員が監督からサインをもらっていた。
 サインをもらうと、彼は俺に手を振って近づいてきた。優しそうな感じの男だった。二人でしばらく一緒に歩いた。
 「僕はまぁ、前の仕事やめて、ちょっとね、仲間が新しい仕事やろうって言うもんで、今はその資金稼ぎって感じかな?うん、まぁ昼間やって、夜やって、三連ちゃんとかもよくやってるね。仕事自体ラクだしね。うん、まぁうちは女房も働いてるし、何とかやってるね」

 『私は、絵とか好きで、昔は漫画家になりたいとか思って、絵もそんな感じだったんだけど、少しずつ本格的に描いてきて、油絵とか分かんないんで、アクリルで描いたりしてるんだけど、うーん、今は充電期間ってとこかしら…』

 「ところで?」

 『あなたは?』

 いきなり朝の陽ざしが差し込んできた。
 電車の激しい走行音が俺の耳に入る。
 長い鉄橋を渡っているようだ。瞼を少しずつ開いていってみる。
 鉄橋の鉄枠が、次々と目の前を通り過ぎていく。その彼方、朝焼けの霞の中に、富士山が佇んでいる。
 電車の激しい走行音。
 一番端のシートで一人ポツンと腰かけているジーンズの女。俺をじっと見ている。本を手にしていた。何の本なのかは解らない。
 人混みの中、俺は歩いている。
 目の前に見える大きなデパートの中へ、引き込まれるように入っていく。
 エスカレーターに乗る。
 一体、今何時なんだろうと思って腕時計を見る。時刻は八時八分を指している。どれくらい俺はこの時計をほったらかしにしてたのだろう?
 気が付くとエスカレーターを降りていた。
 “谷村葉子 女史”の文字が目に入った。
 そのホールには運命鑑定のコーナーが特設されていた。
 何人かの人が並びながら順番を待っていた。俺もその列に加わった。
 そのうち俺の順番がやってきて、椅子に腰掛けた。
 テーブルの向こうには、葉子の姿があった。
 俺は微笑んだ。
 「久し振りね。元気でやってる?」
 「まぁ、何とかね」
 「そう、それは良かった」
 「出世したね」
 「趣味でなくなっただけよ。ところで今日は何の用?」
 俺はふっと笑う。
 「占ってもらいにきた。」
 俺の言葉に葉子はちょっと驚いたようだった。
 しばらく間を置いて「無理よ」と答えた。
 「何故?」と葉子に訊ねた?
 葉子は苦笑した。

 「だって、あなた、名前ないじゃない」

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