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【小説】『風の二番地から』1

 こつ然とそれは始まった。
 気が付くと、俺は疾走する電車の中の乗客の一人であり、ドアにもたれかかり、流れゆく一面コンクリートの景色を眺めていた。
 電車は溝のような所を走っているらしい。何処までも何処までも一面コンクリートのその景色は続いていた。
 ここは何処なのだろう?そして俺は何処に向かっているのだろう?今まで俺は何をしていたのだろう?と云う疑問も大して問題にならず、大いなる平安が心の中を満たしていた。疾走する電車の激しい走行音の中に。
 車内アナウンスが次の停車駅を告げ(何という駅だったかは解らない)、電車のスピードが落ちる。一面コンクリートの景色はまだ続いている。
 駅に着いた。反対側のホームには上りだか下りだかは知らないが、もう既に反対方面に向かう電車が着いていて、今発車する所だ。
 目の前の反対側の電車の車両が動いていく。ポツポツと見える乗客の姿。それもやがて加速される電車のスピードによって判別出来なくなる。
 突然、俺の乗っている電車のドアが閉まった。ドキッとする。間もなく動き出す。
 誰もいない反対側のホームが、俺の視界から流れ去る。ゆっくりとゆっくりと。
 反対側のホームには人影は見えない、と思い込んでいた俺の認識。しかし登り階段に向かう一人の男の姿。黒いコートに身を包み、重い足取りで歩いて行くその姿。

 『俺はあの男を知っている』

 奴の名前、奴の素性、今は言葉にならないが、何かキーワードのようなものさえ耳にすれば、俺は奴の全てを語れるだろう。俺はそれを確信する。
 電車は駅から走り去る。当然、奴の姿も視界から消えている。
 俺は唖然としている。
 一面コンクリートの景色が再び流れ始めている。
 思い出したように車内を見渡す。疾走する電車の走行で、車内が激しく揺れている。
 一番端の椅子に一人ぽつんとジーンズをはいた女が本を読んでいる。
 疾走する電車の走行で、車内は激しく揺れ、全ての手すりが大きく揺れている。
 ジーンズをはいた女の髪はショートカットだ。他に乗客はいない。
 次の停車駅を告げる車内アナウンスが流れる。
 暗闇が突然襲う。電車はトンネルの中に入っていった。

 いくつもの似たような駅を通り過ぎ、俺はある駅で電車を降りた。別にその駅に用があった訳でもない。
 不思議な事に、ホームには俺以外の人間は誰もいなかった。
 俺は立ちつくす。
 冬の冷たい風。その音。
 空には灰色の薄雲がかかっている。
 誰もいないホーム。
 
 
 だって、あなたが望んだ事だもの。

 ……えっ?

 だってあなたが望んだ事だもの。

 発車のチャイムが鳴る。
 時はもう夕暮れでホームにはラッシュの人波が溢れかえっていた。
 ドアが閉まり、俺の背後で電車が発車する。俺は人波に流されながら、ホームの階段を降りた。
 別のホームへの連絡用の通路の角に立ち食いソバ屋がある。サラリーマン風の男が数人、スタジャンを羽織った若者が一人、おのおのソバをすすっている。おのおののドンブリから湯気が立ち込めている。俺はその立ち食いソバ屋を横目にしながら、改札を出る。
 ドーナツの出店がある。ピンクの帽子を被り、ピンクの制服を着た店員二人。一人は男で、流れゆく人の波を唯、眺めている。早くこの時が過ぎればいいのにと云う顔で。もう一人は女。背の小さい、ぽっちゃりとした女。ややうつむき、視線は商品に、しかし心は虚ろな感じである。中年の女が近づく。「えー、これと、うーん、それとこの-」
 俺は駅を出る。
 目の前に水時計。
 自転車に乗った高校生が、長イスのベンチに衝突する。彼の視線の先にはファーストフードの店があって、窓越しに女子高生が三人腰かけている。男のこけた姿を見て笑う。男は照れながら、自転車を起こす。彼の先には彼の友人がいて、呆れ顔で彼を見ている。
 駅を出て、すぐに屋台が置いてある。まだ開店前で、屋台の前にビニールがかかっている。裏で革ジャンを羽織った若い女がタマネギを切り刻んでいる。何の屋台なのかは解らない。
 「こんにちは。お仕事の帰りですか?ちょっと時間を頂けますか?ほんのちょっと五分程でよろしいんですけど。お忙しいんですか?ほんの少しで構わないんですけど。あなたは今の人生に満足してますか?あなたは今のお仕事をどう思いますか?」
 不動産屋がある。貸しマンションの張り紙が十枚と、アパートの張り紙が八枚張ってある。
 入口の脇に大きめの看板。“新築マンション シャトレーヌ 橋田 大浦駅 徒歩10分 2LDK2室 3LDK19室 事務所5室”
 「あ、そう。私ね、13分の電車に乗るから。だからあなたはバスなんでしょ?ええ、私ね、13分の電車に乗るの。ええ!ええ!ああ、なるほど。だから!私はね、私の意見も少しは聞いて下さいよ!全くもう!あなた!変わんないね!私は!13分の」
 銀行の前に自転車がゴミのように置かれている。女がその中の一つを取り出そうとして、やっきになっている。宝くじの窓口がある銀行。その隣には夜間金庫の受付口。
 突然、ある男が俺を見る。ギョロっとした目。警戒の眼差し。まだ二十代ぐらいの男。
 バス停のベンチに何人かが腰掛けている。コートを羽織った社会人。小太りの中年女。縮み込んだ年寄り女。
 その先にデパートのネオン。ガラス張りのエレベーター。銀行の隣はパチンコ屋。オアシスと云うネームのネオン。マーチが鳴り響く。狭っ苦しい空間で、気の抜けたようにパチンコ台を見つめる人々。“本日10時開店”の張り紙。
 電柱にボロボロになっている張り紙。“赤面対人恐怖 どもり は治る 心理学治療教育センター”それを見つめるサラリーマン風の若い男。
 女子学生が二人、自転車に乗って通り過ぎていく。
 パチンコ屋の前は自転車置き場。自転車が好き勝手にゴミのように並べられている。黒いジャンパーの少年がパチンコ屋の隣のビルの階段から降りてくる。
 “パソコン ゲーム カード 中古販売 リサイクル”
 そのビルの一階はケーキ屋。小さいずんぐりした女が二人、店番をしている。何を会話しているのかは解らない。
 むさ苦しい恰好の男が、俺の前を通り過ぎる。
 むさ苦しい恰好の女が一人、俺の前を通り過ぎる。
 女子高生が二人、俺の前を通り過ぎていく。二人共小さくってずんぐりしていて、まるでイモのように見える。一人は眼鏡をかけている。お互いふたりでいる事に安心しているようだ。
 冷たい風が通り抜ける。
 けたたましい笑い声が聞こえる。
 ロックのリズムが人々を安心させる。
 「私は昔から、親に片付けばかりさせられてきたの。だから私は片づけるのとか好きなの。でもだから私は物を作ったりするのはダメなの。片づけるのか好きなの。だからうちの親は片づけるのが下手なの」
 小さな十字路に突き当たる。
 左手の道には違法駐車の車が、次の突き当たりまでいっぱいに止めてある。眼鏡をかけた中年の小柄な女が緑色の自転車に乗って通り過ぎる。
 “糖尿でお困りの方、お電話下さい。樹皮茶(サンプル無料)”
 “スタッフ募集 日曜定休 他連休 月二回 気軽に電話してみて下さい“
 「どうだった?」十字路の角は小学生の塾だ。
 「だめだった」ややうつむき照れている。
 「せんせっ!」
 「おー、どうだった?」
 「国語がダメで、算数はまぁまぁ」
 その塾の教師は白衣を着て、三、四人、道路で塾から出てくる生徒達を出迎えていた。風に打たれて寒そうではある。

 そんな街の風景を、俺は母親の背中にしがみつきながら眺めている。彼女の背中は暖かくて、とても気持ちがいい。目に入るもの、耳にする音、彼女の背中にいるとみんな気持ちよく俺の中に溶け込んでいく。
 そのうち俺はまどろみかける。彼女の鼓動が聞こえる。彼女の存在が感じられる。
 彼女の鼓動がリズムを取り、雑踏の音がメロディーを奏でる。乱れる事なく、見事に調和し、あたかも海岸に打ち寄せられる波のように、寄せては返し、寄せては返し、終わる事なく自然のシンフォニーを奏でる。
 海岸の彼方には暗闇が。俺はぼんやり薄目を開ける。暗闇はまだ存在している。アビスの中に佇んでいるかのように。
 両腕を動かしてみる。生暖かい液体が俺の体を包み込んでいる。
 俺はやっと理解した。ここは彼女の子宮。彼女は俺を、俺と云う生命を育み、俺に生命の存在を教えている。
 俺は耳を澄ます。彼女の優しさ、彼女のしたたかさ、彼女の全てが俺に感じられる。
 彼女の細胞一つ一つが俺に何かを伝えている。その細胞が何故生まれ、育み、彼女の中に存在しているのか?様々な記号となって、俺の中に溶け込んでいく。彼女の存在を十二分に感じながら。彼女を受け入れる事が、俺と云う生命を受け入れる事になる。
 そしてまた静かに目を閉じる。

 彼女は歩いている。笑みを浮かべながら。
 歩き続けたい、と彼女は願っている。
 俺はさらに力を込め、彼女の背中にしがみついた。

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