合理的配慮
米国ではインクルーシブ教育を大前提に、法的根拠を持った人権保障として、授業や試験での合理的配慮が行われている。一方日本は『配慮』という言葉ゆえに、本当はやらなくていいことをやってあげているという意識がまだ強い。
やらなくてはいけない合理的人権保障と読み替えた、態勢整備を急いでほしい。
ふうん、配慮は義務ではないんだね
米国では、法的根拠を持った人権保障だから
学校も「配慮」せざるを得ないるわけだ
でも、合理的人権保障と読み替える、とは
どこまでが合理的に保障されるべきことで
やらなくてはいけないと学校に言うのは誰?
もし学校に基準や実施が丸投げされるのなら
『配慮』からは逸脱することになって
しまうんじゃないのかな
センセー、僕目が悪いです
では眼鏡をかけて見て下さい
眼鏡をかけても見えません
では一番前に来てください
一番前でも読めません
では板書画像をカメラで撮って
タブレットに送信して至近距離で
読めるシステムを提供しましょう
センセー、僕耳が悪いです
では補聴器をつけて下さい
補聴器をつけても音としては聞こえても
言語としては判別できません
では音声を文字に変換して
それをあなたが識別できる音声で
読み上げるシステムを提供しましょう
センセー、僕アタマが悪いです
ではアタマを補助するAI装置を取り付けて
問題のわからないところを抽出解析して
シナプス信号に変換して伝達する
システムを提供しましょう
これであなたも自分のアタマが悪いとは
感じることがなくなるので
学習することができますね