母の日が過ぎてごめんなさいやねんけど、母にありがとうっていつも思ってて、なんならありがとう以外は思ってないかもしれないっていう書き流しです。



私の母は公立中学校の英語科の教師だった。
学生時代はソフトボールの選手で、奨学金で大学を卒業、今は無くなった制度だが、奨学金返済を免除してもらえるからという理由で、教師になったそうだ。 

退職の年まで担任を持ち、最後の年には中学入学から担任を持ち上がった中学3年生とともに中学校を卒業した。
ひとりでも多くの子どもたちと英語で話したり歌ったりして過ごしたいから、と言う一見きれいなしかし過酷な理由で、幹部の職にはつかなった。

顧問を持ったクラブの引率に日曜も出掛けたり、お弁当を忘れた生徒にパンを買ってあげたり(卒業したその生徒さんが、バイト代で買ったパンを手に自宅を訪ねて来られた)たくさんの生徒さんに寄り添った全力投球の教師生活だったんだと想像できる。
昔は卒業アルバムに住所が掲載されていたので、年賀状の数は担任を持つたびどんどん増えていったし、勤務校は常に隣りの市なのに、今では考えられないのだが、自宅に質問に来る生徒さんもいて慕われていたんだなと思われた。

子どもの頃はいつも仕事に出かけて、遅くに帰ってくる生活スタイルの母を理解できない事がたくさんあった。
でも母は中学校の英語の教師だったという事実は今も私の何よりの自慢で支えだと思う。


退職した次の年の冬、61才だった。
脳梗塞で倒れたまま息を引き取った。
まだ首の座らない長男を抱えて病院に駆けつけた時は、心臓マッサージの段階だった。

「ありがとう」
病室では出してはいけないボリュームで母に叫んだ。

人間の死亡は「呼吸が止まる」「心臓が止まる」「脳の働きが止まる(瞳孔散大と対光反射の消失)」を確認したときに、もう二度と息を吹き返すことはないということで「死亡」とされるという。

そんな最期の母に掛けた言葉はこの絶叫に近い「ありがとう」だった。「ありがとう」以外知らない子どものように、叫び続けた。

大きさで感謝の度合いを測れるなら、最大限の大きさ、もう瞳孔は開き切ってたぶん聞こえてないかもしれないけど、伝えたい事は聞き取ってくれたらいいな、、、という無意識で大きな声が出たんだと思う。

「ありがとう」を叫び終わった時は、少しずつ温かさが失われていく母の手を握っていた。
その引き取られていく様子は、悲しみが増していく自分の気持ちと反比例していくようだった。
でも「ありがとう」と言うことによって寂しいし辛いし心痛い自分の気持ちが薄まっていく気もしていた。

首がぐらぐらだった長男は社会人になり、中・高・大に通う子どもたちとの6人家族になった。母がいたなら何度も何度も助言を求め、手を借りただろう。
迷ったとき、母ならどう言うだろう。どうするだろう。どう思うだろう。を自分の進み方の指針とし何とか歩いて来たように思う。

今となっては母に感謝は伝わっていたかは確認できないが、迷う度「お母さんありがとう」と思い続ける事で届いていると思いたい。


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