第二章 順徳院の独白
ひとりになる時間は貴重だ。聖なるものと俗との間で、わたしは迷い続ける。順徳院、佐渡院、佐渡上皇と後世のひとは呼ぶが、わたしはそのことを知らない。24歳のとき、京から佐渡に渡ってすでに二十年が過ぎていた。
私には生涯で六人の皇子がいた。帝の位につけた懐成親王 (仲恭天皇あるいは九条廃帝) は、十七歳でなくなり、その後生まれた忠成も、善統も、みんなここにはいない。右衛門督 (うえもんのかみ)局、典侍など、女官たちは、身籠るとひそかに京に戻り、無事に子どもを産み終えると数年して、わたしのもとへと戻って来る。
子どもたちは、天皇家の血筋なのだから、それにふさわしい教養を身につけ、典雅な環境で育ててやりたい。幸い、女院さま、修明門院重子(順徳母)は、莫大な荘園を引き継いだから、子供たちの世話をすることはたやすかった。将来、天皇となるには、宮中のしきたり、和歌、管弦などにも秀でていないといけない。凡庸であっては、ならないのだ。俊成のように、歌詠みの家に生まれたわけではないが、天皇家というのは、歌が読めて当たり前、なにか管弦の一つも必要。わたしは琵琶を習ったが、子どもたちにも何か教えておきたい。いま多くの時間を割いて、書物をまとめているのも、これを伝えたいと思うからだ。
京にいる子どもたちとは、もう会うことはないだろう。そばに仕えるものは交代で京に帰っていく。佐渡から、京に戻れないのは、私ばかりだから、それはそれでいいのだ。消息のやりとりはあるが、子どもたちと、会えないことは時には寂しく思われる。父、後鳥羽院がしばし、わたしと暮らしたように、御所で会うことができないのが、いちばん哀しい。
一方で佐渡で授かって暮らす子どもたちもいる。一宮の慶子、二宮の忠子、三宮の千歳宮。子どもたちの母親は、地元の郷士の娘だから、どこにもやらず、ここに残っている。歌などは指導しているが、一緒には暮らせない。女官たちが、身分が違いすぎますというのだ。ときおり、住まいを訪ねて話をするのが、唯一の楽しみになっている。
佐渡にいる子どもたちには、京から乳母や女房たちを呼び寄せ、身の回りの世話をさせている。いずれも女院の縁につながるものどもだ。乳母にいわせると、忠子は、和歌詠みの才があるようだ。京にいれば、名のある公卿に嫁がせることもできるのだが、それも叶わぬこと。
私がここに配流されたとき、残された皇子たちにも、それぞれに身の振り方を決めさせた。仏門に入るということ、源姓を賜って臣下となること。鎌倉で北条が力を握っている間は、これまでようなやり方は通用しない。父、後鳥羽院は、髪を下ろし、仏の弟子となって、隠岐に向かった。それが今生の別れとなることを知らず、見送ったのだった。
佐渡では、考える時間が潤沢にある。京にいたときは、煩わしいものも多かったが、今は、だれに頼られることもなく、周りにいる人々とは、少し距離を置いて暮している。
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