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遊泳(essay_room402)

わたしはいま、大きな海の表面を遊泳している。ここがどこなのか知るすべもなく、底知れぬ海の深さのうえで、どこまでも遠い空のしたで、浮力と重力に身を委ねながら。

2018年の暮れだったかな、ここにホテルをつくることを選んだ。この選択によって未来がどう変化するのか、それは今のわたしには分からない。あと10年経ったあとで、振り返ってこの選択の是非を問うたときに、そこにはどんな答えが待っているのだろう。正しかったのか、それとも間違っていたのか、その答えもまた10年経った先にしか分からない。

選択の是非はいま立っている位置から遡ることでしか答えることができない。そうであるなら、その答えは生きている限り変化し続ける。

これが選択することの困難だとおもう。でもわたしたちは何かを選びとることでしか生きのびることができない。選択から逃れることはできない。だからといって毎日をぴんと張り詰めた糸のような緊張感で生きているわけではなく、習慣性を獲得することによって大半の選択を無意識に任せながら生きている。しかし時々波は押し寄せる、せっかく手にした習慣性が自然災害や社会変化などの外部からの、あるいは老化や病いなどの内部からの力によって、いとも簡単に維持できなくなってしまうことがある。一度壊れたシステムは簡単に元へ戻すことはできない。そのときはたと気づく、ああ、なにげなく泳いでいたあの穏やかな海は、過去のだれかの「勇気ある選択」の積み重ねによって築かれた、尊いものであり、そのシステムにもまた寿命という抗えなさが存在するのだと。

新しい選択とは、言うなれば子供をつくることと同じだとおもう。生命を未来へ繋いでいくためにひとが子供をつくることや、生まれた子供を愛でることに異論がないように、新しい選択によって生まれたものを大切に育もうとする行為はごくごく自然なことだとおもう。にもかかわらず、選択には是非を問われる局面がある。わたしは自ら下した選択が、非なるものにならないように、近づきすぎることなく、そして離れすぎない距離を保って見守っていこうと思う。

人が社会をつくり、社会が人をつくる。この絡まり合った複雑な相互作用の海のなかで、わたしはうまく泳ぎ続けることができるだろうか。

そういえば「善は急げ」というタイトルの402号室が、これと同じことをもう少しポジティブで、かつユニークな方法で表現しています。

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