電子旅行の未来はまだ遠い
その昔、五感はすべて「密」だった。
人は「密」が好きすぎるあまり、電子化することで、いつでもどこでも密になれる「バーチャル密」な環境をつくってきた。ここには居ないだれかと話をしたり、音楽を聴いたり、映像を見たり、文明は「密」によって進化したとも言える。
電子に代替された「密」には大きく分けてふたつある。聴覚(会話・音楽)と視覚(文字・写真)である。聴覚であれば、マイクで収録した音をスピーカーで再生する。視覚であれば、カメラでフレーミングした世界をスクリーンに投影する。テキストについてはカメラさえ必要としない。聴覚と視覚、それぞれの電子化の精度についてはさておき、その他の器官(味覚、臭覚、触覚)についてはまだ電子化することはできていない。
旅することがもし、聴覚と視覚だけで満たされるものだとすれば、「電子旅行」のチケットは飛ぶように売れるだろう。しかし現実がそうなっていないことから分かるように、旅は五感を総動員することでしか成立しない。いまのところ「リアル密」を避けて旅することはできない。
この先いつか「電子旅行」が可能になるのかもしれない。でもわたしたちには寿命があるのだから、それまで指をくわえて待っていることなど到底できない。旅がそんな根源的な欲求に支えられているのなら、放っておいても、どんなに規制しても、人はあの手この手を考えて旅に出かけるだろう。しかし問題はそんな本質的なことではなくて、いたって現実的で具体的なところにある。わたしたちに寿命があるように、旅先にも命があるのだ。旅するためにあの手この手を考えているあいだに、気がつけば「旅する先」が死んでしまう、そんな元も子もないことが起こるのだ。
現代に生きるわたしたちに課せられたミッションは、あの手この手を考えながら「旅する先」を守ることなのだ。
「旅する先」を守る、その方法は驚くほどシンプルである。旅先があの手この手を考えているように、わたしたちもあの手この手を考えながら、すぐさま旅を再開すればよい。そうしなければ、わたしたちを待っている未来は「旅する先」が死んでしまったディストピアになってしまい、わたしたちはきっと路頭に迷うことになるだろう。
それでも良い。無くなってしまったらまた作ればいいじゃないか、そう思うひともいるだろう。でもそれは、わたしたちの一回きりの人生のなかに「五感を総動員した感動」を消し去ることでもある。わたしはそんな生き方を選びたくないし、選ばない。だからわたしは今すぐ旅を再開することを決めた。
ウイルスの猛威から守るべきものは、決して健康だけではない。故人が今まで築き上げた文明が支える、現代に生きるわたしたちの「近い未来」そのものなのだ。