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『余命零日』一週間前

1.

優子との再会は、私の余生に大きな影響を及ぼした。そしてそれを実現させてくれた碧の気持ちに、深く深く感謝をした。彼女との出会いがこれ程私に大きなものをもたらすとは、正直想像だにしなかった。

「あぁ~!ぐうぅ~!」

碧の陣痛頻度が増してきた。感覚も心なしか短くなっている様だ。新しい命は着々とその日が来るのを待っている。

久々に店に足を運んでみた。
茜が頑張ってくれているお陰で、店内は以前とほぼ変わっていない。

「マスター。体調はどうですか?」

心配そうに茜が駆け寄ってきた。

「まあまあだ。久し振りに珈琲が飲みたくなってね。」

「直ぐに入れます。」

「いや、自分で入れたのを飲みたいんだ。」

茜は直ぐに察してくれて、

「マスター、ちょっと買い物に行ってきますので、留守番お願いします。」

そう言って、店を出ていった。茜が出掛けた後、店は何とも言えない静寂に包まれた。何かを暗示する様に……。
サイフォンにお気に入りの珈琲豆を入れる。香りや味を引き立たせるのは、やっぱりサイフォン式だと思っている。最近の飲みやすい珈琲に慣れた人だと少し癖が強く感じるかもしれない。そんな客には、サイフォンで煮だした後にドリップしてあげると喜ばれた。そんな珈琲に関する事も、暫くは考えていなかった。カウンターに座り、自前の珈琲を啜る。旨い。まだ私は生きている。そう深く実感できた。
不意に入り口のカウベルが鳴った。つられてそちらに目を向ける。あの女性だった。商店街で私を占いたいと言い、知らぬ間に消えてしまった。あの女性だ。

「あんた…」

言いたい事は山ほどあったが、何から言おうかと迷っているうちに、女性は私の隣に座り話し始めた。

「いい顔です。この前とは大違い。」

女性はそう言って微笑んだ。カウンターに並んだ二人は、互いに顔を向け合う。

「あんた一体何者だ。この前も急に居なくなって…」

「ごめんなさいね。この前の続き、二つ目の話をします。」

女性は居ずまいを正して、そう告げた。そして、私に語り掛ける様にゆっくりと優しく話し始めた。

「私には息子がおります。とてもとても大切な息子です。」

とても懐かしそうに微笑む。

「しかし随分と前にお別れする事になってしまいました。それはとても悲しい事故で誰が悪い訳ではありません。でも結果的に、私と主人、それと息子が離れ離れになってしまった……。」

先程までの笑顔はもうない。

「とても優しい子でした。まだ小さかったのに私や主人の事を気遣ってくれて、よくお手伝いもしてくれました。主人が休みの時には肩を揉んであげたり…でもそんなあの子が、一度だけ我儘を言ったんです。たった一度だけ。」

何を言っている。誰だこの女は。

「あるじゃないですか?小さな子供です。我儘の一つや二つ。当たり前です。何の罪もない。だけどあの子はそれを今も悔やんでいる。自分のせいだと苦しんでいる。」

うるさい。お前に何が分かる。

「今まで散々苦労したね。よく頑張ってきたね。」

分かるのか?本当に分かってくれるのか?本当か?なあ、母さん……。

居る筈のない人が目の前にいる。でも初めてではない。愛美も現れてくれた。母さんが現れてくれてもおかしくはない。おかしくはない?おかしくないよね?

「もう許してあげてね。自分を。」

そう言って、母さんは私の頭を撫でた。何度も何度も……。
溢れてくる。涙も。感情も。記憶も。その全てを吐き出した。何をどう叫んだかも分からない。今までの人生を全て吐き出した。懐かしい、懐かしい、母さんの温もりに包まれながら……。

2.

あれは夢だったのか?いや、もう何でもいい。強い鎮痛剤の影響だったかもしれない。愛美の事も、母さんの事も。それでも私は救われた。あと数年で還暦を迎える今の今まで、長い間私を苦しめてきた呪縛から漸く解放された。それもこれも、彼女のお陰だ。後は彼女の為に出来る事をやろう。

体調はすこぶる良い。ろうそくの最後の残り火の様に、私は元気を取り戻した。碧の出産に関する様々な用意や彼女の身の回りの世話など、出来る事は何でもやった。茜もよく協力してくれた。

「雅之さん、最近どうしたんですか?妙に優しくて、少し気持ち悪い。」

そう言って笑った。優子の一軒以来、川村さんから雅之さんに変わった。少し心を許してくれたのか?

「気持ち悪いとはなんだ。身重の女性を労わっているだけだぞ。」

口調ほどは怒ってはいない。

「優子さんの所には戻らないんですか?」

突然の質問に少したじろいだ。

「優子とはそんなんじゃない。」

「なんですか、それ?高校生みたい。」

笑う碧を、今度は真剣に窘めた。

「何れにせよ、俺はもうすぐ旅立つ。そんな奴と一緒にいて陸な事はない。」

「そんなもんですかね。」

碧はそれ以上は何も言わなかった。

3.

「碧。君には本当に感謝している。どうやら旅立つ前に色んな事を解決して向こうに行けそうだよ。」

明日で私の余命は終わる。私は思っている事をそのまま碧に伝えた。碧はそれを真顔で聞いていた。どういう感情なのか掴み切れない。

「結果的には良かったですね。私も話を聞いた手前、何とかしたかった気持ちもあったし。でも結局雅之さんの気持ち一つでしたよ。自分が変わりたいと思ったから変われたんですよ。」

「そうか。それじゃ次は君の番だな。」

私は含みを持たせて碧に投げ掛けた。そして、その夜の千夜一夜物語で漸く彼女の本音を聞く事が出来た。

「予定日はいよいよ明日です。これが最後の物語になるかもしれません。本当の私を、もう少しだけ話しますね。」

そう言って、碧の最後の千夜一夜物語は始まった。

「私の両親については話しましたね。中学校の教師でした。ほぼネグレクトの様な形で育った私は、物事に期待する事を止めました。幼少期から何度も期待は裏切られ、子供心に防衛本能が働いたのでしょう。誕生日・クリスマス・盆に正月。世間が家族で過ごすイベントは悉く諦めました。その代わり私は、もう一つの私の世界を作りました。そこでは私は幸せでした。そこでの私はいつも笑っていました。そこに居れば、私は私である事が出来ました。」

そう言って笑った。もう以前の自嘲的な笑いではない。

「学校から帰った私はいつも自室に閉じこもり、もう一つの私の世界へ向かいます。そこでは学校から帰った私を母が出迎えます。そしておやつの紅茶とケーキを出しながら、今日学校であった話を聞いてくれます。私が楽しそうに話す様子を微笑ましい表情で聞いてくれる。それから自室で宿題を終えてから母の台所の手伝いをする。そうしている間に仕事から父が帰ってくる。親子三人で楽しく食卓を囲む。夕食が終わるとテレビを見ながらみんなで談笑。お風呂に入ってから歯磨きをして、母にお布団まで連れていってもらう。明日の学校を楽しみにして、ゆっくり眠りに就く。」

私にも心当たりがあった。辛い現実から離れる為に空想の世界に逃げ込む。私は物語の主人公に成り済まし、ヒーローになったつもりで無理難題を解決したっけ?

「そんな空想を続けていると、現実で何も感じなくなるんですよ。辛い事、嫌な事が起こると自然に空想の世界に逃げ込む様になる。虚構と現実が入れ替わるんですね。もう自分でも実体が分からない。そうなるともう廃人です。生きる屍ですよ。だから雅之さんとも通じるものがあったんですね。」

分かる気がする。私もそうやって生きてきたから。

「それでもね。負の感情が消えて無くなる訳ではないんですよ。時々どす黒いものが湧き上がってくる…自分でも制御しきれない、もう凄い悪意が。恐ろしくなります。どんなに封じ込めようとしても決して無くならない。普段見ない様にしているから、余計鮮明に感じる。」

碧の以前一度だけ垣間見た、恨みの感情が再び姿を現した。

「初めては、中学校の時でした。クラスメートの女の子。家は金持ちで我儘な子。私が気に入らないらしく、いつも数人で私を虐めた。それは段々エスカレートし、教科書や洋服を汚される様になった。終いには男子を使って、私に性的な嫌がらせをする様になった。ずっと現実逃避していた私に、初めて訪れた負の感情だった。抑えようとしても抑えきれない。」

私は何も言えず聞き入った。

「ある日私は、そのリーダー格の女を尾行した。私はある計画を立てていた。彼女の家はみんなに比べて少し郊外にある。だから帰りは必ず一人になる。そしてその帰り道には踏切がある。下校時はかなりの確率で遮断機は下りている。」

結果が想像出来るだけに恐ろしい。

「次の日の朝、学校で悲しいお知らせがあった。クラスメートのあのリーダー格の女の子が踏切の事故で亡くなったという。みんな悲しみに暮れていた。私もみんなに混ざって泣いていた。だって、クラスメートが亡くなったんだもの。」

碧の本当の姿を見た気がした。

「そんな風に私は、事ある毎に自分を脅かすものを排除してきた。あらゆる方法を使って。」

「もしかして?居なくなったフィアンセって……。」

碧の顔からは表情が消えていた。

「私はそういう女です。決して善人なんかじゃないんです。」

そういうや否や、碧が突然苦しみ出した。本陣痛かもしれない。

「おい、大丈夫か!タクシー呼ぶぞ!」

慌ててスマホを取り出し、最寄りのタクシーを呼び出した。

タクシーは直ぐに到着し、碧と私は乗り込んだ。やがて苦しみ続けていた碧が、息も絶え絶え何かを語り出した。

「最後に…変な話を聞かせて…ごめんなさい…」

私の手を握りながら必死で何かを伝えようとしている。

「どうした?何が言いたい?」

「本当は、この子も…産むのを…止めようと…」

「聞こえる。聞こえてるぞ!」

「彼にも捨てられて…どうでもよくなって…」

「もういい。喋るな!」

「それで…この子に、産んであげられなくて…ごめんねって…」

「分かった。分かったから。」

「そしたら…この子…トントンって…」

「え?」

「分かったよって感じで…ゆっくり…お腹を…トントンって…」

碧はそう言って号泣した。タクシーは病院前に到着した。

4.

今日で私は死ぬ。その筈だ。
そして、そんな日に生まれる命もある。

“お母さん!頑張って!もう少しですよ!”
“はい、ゆっくり息吸って!はい、止めて!息んで!”

暫くして、元気な産声が病室内に響いた。少し甲高い、力強い泣き声だ。
ああ、産まれたんだな……。

「川村さん、産まれましたよ!元気な男の子です。」

看護師が、病室の端っこに居た俺の目の前まで連れてきて、赤ん坊を抱かせてくれた。向こう側のベッドでは、母親になった碧が聖母のような眼差しで俺を見詰めている。

「赤ん坊って、こんな小さかったかな?」

本当は、しっかりと覚えている。改めて赤ん坊に目を向けた。正直、猿みたいだなと思ったがよく見ると目鼻立ちは、はっきりしている。

「なんか、俺に似てないか?」

半分冗談のつもりだったが、半分は本音だった。

「そのつもりです。」

笑って返してくれると思っていた碧は、真顔でそう答えた。

「それじゃ、いい男になるな……。」

冗談で和ませようとした筈なのに、俺の頬には涙が伝っていた……。

北海道.

「やはり、都会とは違うな……。」

満天の星空を見上げながら、私は独りごちた。

時計は深夜零時を回り、余命は零日となった。余生の余生。最後に締めくくる場所は、やはりこの地だ。

「最後に出会えたのは、幸運だった……。」

死の直前に起こった様々な出会い。
その中でも、碧との出会いはやはり必然だった。お互いがお互いを取り戻すためにはどうしても。碧は産まれてくる子供によって、自らが救われた。この子が居なかったら碧は破滅していたかもしれない。
そして私も、生まれ変わった碧によって救われた。彼女が居なかったら、遣り切れない思いを抱えたまま旅立つ事になっていただろう。
死に逝くものと産まれ来るもの。私達はこの繰り返しの中で生かされている。そして様々な思いを抱えて生きている。その短すぎる生涯で、それら全てを解決するのは不可能かもしれない。
ただ、そんなちっぽけな存在だからこそ、誰かが必要なのだ。身近にいる大切な人を見逃してはいけない。直ぐ傍に居る大切な人を。

碧の告白は、聞かなかった事にする…
一筋、星が流れた……。







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