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言語化が自分の限界を作っている

言語化を手放し、なりたい自分になる

最近、いろんな違和感を自分時自身に感じる機会が増えました。

「疲れてる」と言われれば間違いなくそうで、「良いから寝ろ」と自分に言い聞かせております。

などと言いながらも…違和感を感じる時、その違和感は『自分の陰』だと考えるようになりました。

居合いが楽しくなって、体で考えるようになったのかも。

梵我一如

仏教では、「梵我一如=梵(宇宙)と我(自分)は一如(同じ)」という考え方があります。

自分と他人は一体です。みたいな意味かも。

これ、好きなんですよねぇ。

他人が何を考えているのか?

基本、これは「わかる」前提で社会は成立してると考えています。

笑えば楽しいと思うし、泣けば悲しいと思う。

でも、時折り「何を考えてるの?」と思った時に、結局「他人が何を考えているのかわからない」という結論を出すことも多いです。

他人の考えが気になる時、そこに自分の陰を感じる

『梵我一如』まさしくそれ。

『他人に感じた自分の陰』

そもそも、その“陰”を誰かに伝えるのに、強い違和感を感じる…。

だから、『自分の陰の言語化』はやめます。

言い訳だから。

言語化能力というのは、とある「先生」に学んだ僕の宝物です。

それは僕の武器だった。

「ねぇ、そんなに怯えて生きるほど、僕の世界は怖い?」

その武器は自分で自分に限界を作った拘束衣でもあると考え出しました。

言葉は世界に境界を引く

それは、形のないナニカを安定させ、停滞させる。

そうか、そうか。

停滞させていたものは「       」

出典

unsplash.com

Simon Hurry
farfar

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