居合の間合いと日常の境界
あえて寝る
大仰なタイトルで始めましたが、当の筆者は1週間以上も風邪を拗らせております…。
どうも心因性の風邪らしく、気分の落ち込みから罹患したと思われ。さて、何が原因か。
納得できる“答え”が必要だ。
…大袈裟ですな。
さて、長期間風邪を拗らせている理由。
それは趣味の居合術と関係があると考えました。
居合はとても楽しく、しかも破格の受講料。週4日受講できて、1回2時間以上。
マイペースでやっておりました。
風邪を拗らせたのは先々週の居合の帰り道。
初めてと言っていいくらい、たくさんの指導を師範からいただいた日でした。
『素直な人間が早く上達する』
指導の最後に師範から頂戴した言葉。少し前から、「この言葉が出たらしんどいなぁ…」と思っていた言葉だったと。
平たく言えば『黙っていうことを聞け』といった体育会系に近い価値観に思え、最も自分と相性が良く、だからこそ危険な思考パターンだと考えていたからかなぁ。
師範の真意は、多分それじゃあないと思います。
郷に入っては郷に従え
最初に出した答えは、そういうことで。
師範から技術を学ぶべく入門したなら、その考えに倣うのは当然。
そこに自分の価値観でジャッジするのは傲慢だ。
初めていただく手厳しい師範の指導。
不思議とそれに大きく心揺さぶられることはなく、ただ一振り一振り、どれだけ丁寧に、綺麗に刀を触れるかに集中。
下丹田に意識を集中。
リラックスして、一撃の瞬間に力を。
そして、速やかに、滑らかに力を抜き、刀と重力と一体化することに励む。
『何が足りんかわかるか?』
『前教えたことは何や?』
師範の問いかけに『間違ってたらどうしよう』という迷いを持ちながら答える。
刀を振るうちに、だんだんと迷いは減って行き、『答えだと思う』言葉を淡々と返す。
『わかりません』と答えることも。
否定される時もあり、認められる時もあり。
鏡に映る自分に、迷いのボディーランゲージが減っていく。
とはいえ都度都度、迷いや雑念が。
それはいつも、『 』を意識した時だ
いろんな気づきが流れて行く…
ただ、今だけを見る…
言葉を使うことなく、ただ、今だけを見る時が続く…これは…瞑想だ…
我を捨てようとしている…
師範が最後に伝えられたこと
『所作は生活全てに現れる』
…そうなんだよなぁ。
で、普段は20分くらいで家に着くところ、寒風吹き荒ぶ夜の中自転車で、40分くらいかけてあれこれ悩みながら家に辿り着きました。
翌朝、鼻が乾燥してイタイイタイ。
他人の考えを『鵜呑みにする』のと、『倣う』ことに境目を引くために、どんな『説明』をつけよう…
最近思うのは、『人生の答えは自分で創る』ということです。
『言語化』という技術を高めることで、ある程度それができるようになったつもりでした。
ただ、今回は違うかも。
師範の言葉は自分で自分に『言語化』を禁止するに至る。
そして、それを『日常の所作』にまで落とし込むことを目指す。
『言語化』を使わないと自分がいかに無力かを痛感している今日この頃…
一つのことに頼りすぎてたから、それがなくなったら危機に陥ったんだな。
いろんなやり方を備えてこそ、柔やかでいられる。
居合は柔剣
じゃあ、どうやったら柔やかになれるのか。
ああ、そうか。
あらゆる場面において『言語化をしない』という1つのルールだけで生活したことが、柔やかになれない理由かも。
『言語化も使えばいい』んだ
今学ぶ居合術において、『言語化』は使うべきものじゃない。
それが、師範の伝えたことと捉えました。
『所作は生活全てに現れる』
師範の仰る通り、僕の所作はお話にならないくらい未熟だ。
要は、動きが雑で無礼なんだ。
呼吸は乱れやすく、せっかちでいろんなものを粗末に扱う。
さて。
なんぴとも、いきなり完璧に至らない
そこに突然『完璧さ』を求め、呼吸1つから自分にダメ出しをする。
日常生活でも自己否定してたら、免疫が落ちるわなぁ💧
門人として、居合をするとき。そこに言語化を、使えなくするのはとても大事だと思う。
ただ、生活をする上で言語化は必要。
居合と他の場面に、境界線(別のルール)を引く。
荒い所作も、至らない人間性も、それはそれ。
『自分の存在を否定するように』なんて、誰も言っていない。
まずありのままを受け入れるのが順番だ。
ありのままの自分を受け入れる。それが
無我の境地
師範の指導を頂戴する中、無心に刀を振る自分。
それは師範に『無我(素直)』であると同時に、至らない自分を受け入れる『我が儘(そのままの自分)』でもある。
誰かに操作されてることとは違う。
自分が恐れていたのは、我を預け、誰かに操作されることだった。
【素直】になると、ひとに操作される?
それが怖い。
師範は僕に技術を伝えている。
僕はただ、素直になりすぎて体が壊れるまで打ち込むかもと思って怖い。
今実際、言われたままに生活に取り入れて具合が悪くなってるし💧
それは、他人のせい?
誰かのせいにしても、他人を変えることはできないから。
機嫌良く生きるには、できないことから離れるのが大事かも。
何事も、自分のできる間合い=境界でやればいい
師範の前で刀を振るう自分は、ただありのままを見つめようと努力を続ける門下生。
楽しかった。
なんの根拠もないけれど、あの時の『素直さ』は、『騙されやすさ』とは違うと思う。
『言語化』を捨て、ストイックに道を求めることは楽しい。
『それは居合術の門下生である』という境界において、重要なしきたりだと思う。
日常生活においてはまた、それぞれ違うしきたりがあると思う。
社会生活において、多種多様な境界が存在する
曖昧な境界も、くっきり明瞭な境界も。時に移動する境界、消えてしまった境界もあるかもしれない。
そんな中、柔やかに生きるとき。
最も頼りになるものは
無我の境地
こだわりなく、まず、ありのままを見つめる。
それが、多様なルール、環境に親しみ馴染む生き方なんじゃないかなぁ。
新しい何にかに触れる時、我を捨て、言語化を捨て、自分の境界と限界を外す。
強さ、女らしさ、男らしさ、正義…
…社会が極端な一つの価値観に染まり行くように見える中、その硬さと脆さとに怯えることが少しでも減るように…
出典
ジョジョの奇妙な冒険/荒木飛呂彦/集英社
スティール・ボール・ラン/荒木飛呂彦/集英社
逆境ナイン/島本和彦/徳間書店