肥溜めに落ちた話
3歳の春のはじめごろ、私は家の近くの原っぱをふたりの男の子と一緒に走っていました。記憶はいきなりここから始まるので、なぜそんなところを走っていたのかは不明です。当時住んでいたのは京都の太秦で、大映の撮影所の近くでした。勝新太郎と田宮二郎がスチール写真を撮影していたのを見たことがあると母が言っていましたが、おそらく映画『悪名』シリーズのものだと思われます。
どんくさくて走るのが遅かった私とふたりとの差が開き、私はあせっていました。そのとき突然足の下の地面が消失し、次の瞬間、私は自分が液体の中にいることに気がつきました。なんと私は『野壺』(標準語でいうところの肥溜め)に落ち込んでいたのです。
肥溜めというのは、し尿を貯蔵し肥料にするための穴で、化学肥料が普及するまでは、人のし尿を発酵させた肥料が農業に使われていました。今は水洗トイレが当たり前ですが、あのころはいわゆる『ぼっとん便所』と言われる汲み取り式のトイレが普通でした。私が入学した小学校もぼっとん便所で、ここは幽霊が出る、こっちは妖怪が出る、そこは人が死んだことがあるなどという噂がまことしやかにささやかれていて、5つ並んだトイレもふたつしか使えず、休み時間には長蛇の列ができていたのを覚えています。
さて、肥溜めの中の私ですが、もう少し年齢が上だったらパニックになっていたのでしょうが、なにせ3歳の幼児です。自分がいったいどういう状況にあるのか把握できていなかったものと思われます。泣くこともあわてることもありませんでした。でも、ここから脱出しなくてはいけないとは考えたようです。穴の縁はアスファルトの道路でした。そこへ両手をついてぐっと力を入れると体がすんなり持ちあがり、私は肥溜めから這い上がることができました。そのとき、アスファルトに自分の手の型が濡れてついていたことを鮮明に覚えています。窒息したり溺れたりなど、子どもの死亡事故もあったので、無事だったのはとてもラッキーでした。
そして、私の記憶はそこで途切れているのでした。家に帰ってきた私を見て母は仰天したそうです。外に立たされた私は、隣家のおばさんの協力のもと、頭からざぶざぶと何度もお湯をかけられたとのこと。幸い、私が落ち込んだ肥溜めはもう使われておらず、雨水が成分の大半を占めていたらしいのですが、それでも当然臭いがひどくて、着ていたものはその日おろしたてだった母の手編みのカーディガンも含めてすべて捨てられました。
肥溜めに落ちただなんて、恥ずかしくて誰にも言えません……。
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