一人寂しい朝を支えてくれたのは、母の好きなあのヨーグルト。
風邪をひくと、母は決まってヨーグルトを買ってきてくれた。
今思えば、母はヨーグルト好きだったのだろうと思う。冷蔵庫の中にはいつもヨーグルトが入っていたし、病気の時もヨーグルト。大人になって帰省しても、朝食にはヨーグルトに季節のフルーツをのせたデザートを作ってくれていた。
そんな当たり前の、母のヨーグルトが食べれなくなってしまった時期があった。それは、ちょっとした感情のすれ違いで母とケンカしてしまい、一年ほど実家に戻れなくなった時のことだった。
*****
「あんたもいい加減、良い人みつけたら?」
とある日、私は母から来たこのメールにイラついてしまった。もうすぐ私も30代。結婚もそろそろ……と思っていたけれど、数年前に長年付き合った彼から別れを告げられ、未だにトラウマを引きずっている状態だった。
しかもその日は、仕事で大きなミスをした最悪のタイミング。クライアントの罵声を浴び、平謝りし、帰社すれば上司に頭を下げ、困難な事後処理に頭を悩ますばかり。
自分だけのミスなら、とことん落ち込んでいただろう。けれど今回の原因はクライアント側にもあり、それにも関わらず全責任を押し付けられた理不尽さに、やり場のない怒りが湧き上がっていたのだ。
そんな時に、まるでタイミングを合わせたかのようなイラっとするメール。大人気ないと分かっていた。けれど思春期の子供が母親に八つ当たりするように、感情のままにメールを送ってしまった。
「私の勝手でしょ。口出ししないでよ」
母は、我慢強い人だった。つらいことがあっても外に発散するのではなく、心にぐっとため込んで消化する人だった。そんな母にもどかしさを感じた時も多かったが、何を言っても受け止めてくれるという、甘えに似た安心感も同時にあった。
だから、私が強く発言しても関係が崩れることはない。むしろ、ちょっとは私の気持ちも考えてほしい……そう思って、感情のままにメールを送ってしまったのだ。
……返事は、来なかった。
後日メールを見返して、言い方がキツかったかもしれないと反省した。けれど、母も母であんな風に言わなくたって……と、自分の意見を曲げることもできなかった。
そして忙しい毎日を送っているうちに、あっと言う間にお盆の時期が迫っていた。まぁ母もあのメールのことはすっかり忘れているだろうと思って、何事もなかったかのように帰省の日程をメールした。
ところが、この時の母は、ちょっと違った。
「しばらく会いたくない」と、母から思いがけない返事が返ってきた。私は意味が分からず、すぐ電話をかけた。すると母は、最初は落ち込んだ声で、最後の方には泣きながら私に怒りの感情を向けてきたのだ。
「あんたを心配して、言っただけなのに……」
「母さんがどんな気持ちでいるか、分からないくせに!」
……仕方なくお盆は、気分転換に旅行することにした。
けれど、どこに行っても、どんな食事を食べても、心は上の空だった。気分を変えようとしても、ふとした瞬間に母の言葉を思い出して、胸が苦しくなるだけだった。
*****
そうして、心がモヤモヤしたまま時間が過ぎ。季節の変わり目が訪れたころ、風邪をひいてしまった。
風邪のひきはじめというのは、何となくわかる。頭がフラフラして、寒気がして、体の節々が痛みはじめる。これが私の風邪をひくサインだ。そしてそういう時は、必ずスポーツドリンクと、胃腸にやさしい食べ物を買って帰る。
その日もそうして、帰宅前にスーパーに買い物に行くと……
母がいつも買っていた、あのヨーグルトが目に留まった。
自宅に帰るなり、さっと汗を流して温かい恰好に着替え、お粥を食べて布団に入る。ベッドサイドにスポーツドリンクを置いておく。これで準備万端だ。
その後、私の体温はみるみる上昇していった。全身が倦怠感に襲われる。意識が遠くなる。ノドが痛い。トイレに立ちあがるのも辛い……。
一人暮らしを経験したことがある人なら、風邪をひいた時のあの心の細さが、分かるだろうか。誰にも頼れない、あの孤独感。看病してくれる人がいないというのは、心身ともに、辛い。
数時間たっても体が熱さは引かず、死後を考えてしまうほど心まで弱りはじめたとき……ふと冷蔵庫の中にある、ヨーグルトの存在を思い出した。同時に、母の顔が思い浮かぶ。
母がいつも買ってきてくれた、ヨーグルト。隣にあるだけで安心で、風邪もすぐ治る気がして。でもそれは、ヨーグルト自体がそうさせるのではない。
「ヨーグルト、買ってきたからね」
そういって、母が額のタオルをこまめに変えてくれたこと。温かい玉子粥を作ってくれたこと。眠るまでそばに居て、安心させてくれたこと……。
あのヨーグルトが、そんな母の優しさを思い出させてくれるから。母の愛情に何度も支えられたことを、思い出させてくれるから。
……私は、そんな両親を楽にしてあげたくて上京し、稼いで親孝行したいと思っていた。そのために、ここまで歯を食いしばってきた。
結婚相手だって、自分の気持ちはもちろん大事だけれど、両親を笑顔にするような相手を選んで、喜ばせてあげたかったのだ。
だから私は……。
それなのに、私は……。
「お母さん……本当に、ごめんなさい……」
誰にも聞かれることがない謝罪が、むなしく部屋に溶け込んだ。
*****
翌朝、熱は少しだけ下がっていた。まだ体が重くて、頭もフラフラするけれど、起き上がれないほどではなかった。
体を起こして、朝食を求める。冷蔵庫の中から、あのヨーグルトを取り出した。母のように季節のフルーツは使わない。オシャレな器に、盛り付けることもない。
けれど、いつもの味。ほっとする、あのヨーグルトの味……。
風邪が治ったら、母に手紙を書こう。感情をぶつけてしまったことを、ちゃんと謝ろう。
そして、しっかりと前に進もう。一人の寂しさを、もう味わうことがないように。