速水奏の忘れな草
小さな、白い錠剤だった。嫌なことを忘れたくなったら飲むといい、と言われていた。
今年の初夏に行った修学旅行先で、同級生と夜に宿を抜け出して行った少し危ない遊び場で怪しい老婆に貰ったものだ。友達は「奏、こんなん絶対使っちゃダメだよ」と捨てていたが、私はなぜだかその1グラムもない薬の塊の重みに怯えて、彼女のようにゴミ箱にそれを投げ捨てることができなかった。
あれから半年、今日という日まで、黒い紙に包まれたその薬はハンドバッグの内ポケットの中に、意識の外枠を這いずり回りながらも確かな存在感を放って、佇んでいる。
私は、それを口に含んだ。
舌の上から、泥のような苦味と不快な痺れが口の中に広がる。ごめんなさい、と心の中で一つ呟き、水で流し込むと、次は隠しようのない罪悪感がじわりと滲み出た。
次に、焦燥が訪れた。頭の中で自分の愚かな行いを叱責しながら手洗いに駆け込み、胃の中身を逆流させようとしたが、指が震えて上手く喉奥に触れられない。体の制御権が消えつつある感覚に恐怖した瞬間、突然四肢から力が抜け、膝が崩れる。慣れ親しんだ自宅の手洗いの扉によりかかると、ひんやりと心地よかった。
許して。ごめんなさい。ごめんなさい。気の迷いだったんです。
口から勝手に零れ出ていく言葉たちが、緩やかに歪みつつある意識の中で山彦のように反芻されていく。心は罪の感覚に覆い尽くされていくが、体と脳は出所のわからぬ浮遊感に見舞われていた。眼球が焦点を保つことを拒み、ゆるゆると視界が崩れる。
言葉を綴り続けようとする舌の動きは、緩慢に。
意識は、取り返しがつかないほどに解かれて。
私は壊れて、眠りについた。
・・・
・・
・
『忘れな草』という映画があった。テノール歌手が女性に恋するが叶わず、最後に『忘れな草』という曲を歌う、という話だ。深夜の映画放送で一度だけ見た程度なので別段好きな作品というわけではないが、印象深く、気に入っていた。私を忘れないでください、というメッセージを込めて歌う主演俳優のその様はあまりにも未練たらたらながらも少しだけ前向きで、それがどこまでも美しいもののように感じられた。
それは、私の憧れる失恋だった。恋に破れたら歌の一つでも歌って、次に進む。恋の終わりに力強く、けど情をもって向き合う。そのときが来れば、きっとそう振る舞おうと、心に決めていた。
だが、そうはいかなかった。失恋とすら言い切れない、迷子になってしまっただけの慕情が、私の恋のなれの果てだった。
何を間違えたのか。
恋してしまった相手が悪かった。結ばれてはいけない立場だった。アイドルという立場上、業界の人と、よりにもよって事務所のプロデューサーと、なんて恋愛はご法度中のご法度だった。
私の仕掛け方が悪かった。変にいい恰好をしようとしすぎた。どう想いの丈を表現しようとしたところで「ああ、奏は平常運転か」と思われてしまう狼少年になってしまった。
何から何まで間違えたから、「その気持ちに応えられない」と言ってもらえることはなかった。私は、一度も気持ちを打ち明けていない。きっと、打ち明けたところでまた「こら、やめなさい」と困ったように言われるだけだろう。そうなってしまった時点で、仮面の方の速水奏の恋は、終わりだった。
けれど、仮面の裏で傷つくことを恐れている方の速水奏はどうにも夢見がちで、どこかでまだ愛されることを信じて止まないでいる。傷つくことを恐れているのに、映画のように訪れる救いがきっとあると、思い込んでいる。
故に、私が『忘れな草』歌える日は、来ない。恋心を引きずり回して生傷を増やし、痛みに喘ぎ泣きながら、願うだけだ。
どうか。どうか、私を、私のことを忘れて。
もう一度、貴方に会うところからやり直させて下さい、と。
・・・
・・
・
朝食の匂いに誘われて目を覚ますと、そこは自室のベッドの上だった。常日頃から朝は低血圧がちな私にとって、朝から空腹感を覚えるほどに元気なことは珍しかった。キッチンに母親に聞くと、昨日は私はいつの間にか帰ってきて、いつの間にか部屋で寝ていたらしい。
だから私は、昨晩の薬のことなど夢だったのだろうと考えた。保健体育の授業で教わったような、薬物の副作用の気だるさや無気力感などまるでなく、その日の私は逆に健康そのものだった。日頃よりもしっかりと食事を摂り、授業中も集中力がよく続いた。気力体力共に充実し、今日は何もかもが順調に行く気がしていた。もしかしたら、今日くらいはあの人と、上手くいくかも。そんなことに想いを馳せながら同級生にその日の別れを告げ、レッスン場に向かった。
学生で込み返した夕時の電車に乗ると、同じ車両に手帳片手に吊革に体重を預ける想い人の姿があった。私と目が合うと、眉を上げ目を見開き、彼は驚きをあらわにした。彼の隣に立った私に「どうも」と少し他人行儀に挨拶する彼もこの偶然に驚いているのだろうか。こそばゆさを感じながら「おはようございます」、と小さく目を伏せながら返す。ああ、なんと素晴らしい巡り合せだろう。きっと、今日は素晴らしい一日になるに違いない。
「……えっと、すいません、失礼ですが今日はどちらまで?」
他人行儀のまま会話を進める彼に合わせて、「二駅隣まで。貴方は?」と答える。
「奇遇ですね。私もです」
本当に、奇遇だ。彼がレッスン場まで来ることは、珍しい。私の様子を見に来てくれたのだろうか。そのはずだ、今日のレッスンは私一人のはずだ。
ああ、嬉しい。嬉しい。小躍りしてしまう心を隠せず、小さく笑ってしまう。様になっていたのだろうか、脇目で彼の方を見ると、呼吸を止めて私に見惚れているように、私の口元に視線を寄せていた。
「えっと、よければ少しお話でもしませんか。お時間があれば、ですが」
時計を見ると、レッスンまであと小一時間はある。思えば、彼にスカウトされた時もこの駅の近くの喫茶店だった。行くとしたら、そこだろうか。時間をつぶす、という体だが、小デートまでできてしまうなんて、なんとも今日は運が良い。
「ええ。勿論です」
天から降り注ぐ幸運の連続に感謝しながら、とびっきりの笑顔で、私は答えた。
・・・
「私、アイドル事務所のプロデューサーをしている者です」
そう言い、彼は私に名刺を差し出す。懐かしいその一連の流れに、クスリ、と笑う。
「興味があれば是非、と思いまして。どうでしょうか」
まだ続くのか、と思いながらも、笑みは絶えない。彼がこうして構ってくれることが、やっぱり嬉しい。
しかし。
「お名前を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
私の笑みは、途切れた。
普段であれば「冗談はやめて」と怒ることができただろう。
だが、今日に限っては、それができなかった。
こめかみに鈍い痛みが走る。彼は何かを喋り続けているが、聞こえない。背筋が凍てつく感覚に震え、湧き出たような恐怖と絶望感に慄き、下唇を噛んだ。
彼と目線を合わせたまま、ハンドバッグに手を伸ばし、内ポケットの中のガサリとしか感触を確かめ、取り出すと、そこにはくしゃくしゃの黒い紙だけがあった。
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