敬愛する写真家・木村伊兵衛氏について語りたい。
みなさんには、自身の写真に影響を与えた尊敬する写真家はいらっしゃいますでしょうか。
本日は僕の写真と撮影スタイルに大きな影響を与えた写真家・木村伊兵衛氏について語りたいと思います。
木村伊兵衛氏に関する書籍は少しばかり収集しています。(写真以外にもあと何冊かあります)
こういった特集本などはネットには転がっていない彼の人柄にまつわるエピソードなどを知ることができる楽しみがあります。
木村伊兵衛氏について
あらまし
木村伊兵衛氏は1901年12月12日、東京都の下谷で組紐業を営む裕福な家系に生まれます。
どうやら小さい頃は小学校まで籠で通学していたらしいですよ。籠ですよ。
小学校3年の頃、浅草の露店で玩具のボックスカメラを購入したことから写真に魅了されることになります。
そして1929年ドイツの飛行船ツェッペリン号の船長エッケナー博士の持つライカに興味を抱き、翌年ライカA型を購入し本格的に使い始めます。
当時のライカは庶民の貯金で買えるような代物ではなく、木村伊兵衛氏は持っていたカメラを全て売り払い、カメラ本体とライカの引き伸ばし機を入手したと記載がありました。
それほど軽快に撮れるライカに可能性を感じていたのでしょう。
その後、M型ライカのLeica M3が発売されるとすぐさま入手し愛用されたそうです。
主に貴婦人と称される50mmの初代Summilux 50mm f1.4を使用し、他にもSummilux35mmや90mmなど多種多様なレンズを使用していたとのこと。
被写体は主に東京の下町の庶民の営みを撮影し、上手くシャッターを切れた際には『粋なもんです』と呟いたそう。
そしてフランスのパリや、秋田での農村の撮影を行います。
秋田は当初、秋田美人を見にいきたくて行ったところ最終的には20年間の間に21回も撮影に出向き、モノクロフィルム319本(約11,000コマ)を撮影しています。
1974年5月31日に逝去。
基本情報
身長=約165cm
体重=約70kg
足のサイズ=約25cm
身長は現代人と比較すると少し低めでぽっちゃり体型といったところでしょうか。
ちなみに身長は僕と同じくらいで、アイレベルが同じくらいになるという妙な嬉しさがあります。(作品を見るに、木村伊兵衛は基本的にハイアングル、ローアングルの写真が少なく、ほとんどをアイレベルで撮影していると推察します。)
エピソード
(1)カメラの手入れを怠らない
毎日撮影が終わるとカメラを念入りに手入れするのが木村伊兵衛氏。
人前で磨くときは特に念入りに手入れしていたそうです。
カメラの手入れについては弟子にさせることはなく、必ず自分の手で行なっていたそうです。
(2)よくスナップした場所
木村伊兵衛氏は東京の下町生まれで上野・浅草周辺をよくスナップしていました。
◯上野エリア
寛永寺、鶯谷駅周辺、上野公園、不忍池、湯島神社
◯浅草エリア
浅草寺、伝法院通り、六区界隈、花やしき遊園地、吾妻橋
ちなみに浅草エリアにある神谷バー、大黒屋天麩羅、駒形どぜう、並木藪蕎麦は良く木村伊兵衛氏が通ったお店のようです。
(3)ポートレートでの使用レンズ
木村伊兵衛氏はポートレートを撮る際、ライカにタンバール90mm、ズマリット50mmF1.5をよく使っていたそうです。
特に一時期はタンバールを多用しており、写真の那覇の芸人などはまさに開放付近が柔らかいソフトフォーカスが特徴的なタンバールで撮られた作品です。
撮影時は実に丁寧な口調で指示出しを行なっていたとのこと。
しかし、親しい仲であった伊奈信男氏に『木村伊兵衛はライカ使いの職人だ』と批評されたことにショックを受け、即日タンバールを売り払ってしまったというエピソードがあります。
(4)F値は開放を好む
木村伊兵衛氏はライカレンズの持ち味を生かすためにF5.6以上には絞らず、基本的に開放のままで写すことを好んだそうです。
『ライカのレンズは空気が写る!』というのは木村伊兵衛氏の代表的なフレーズです。
(5)お洒落な一面
木村伊兵衛氏は実にお洒落な人物であったそうです。
旅先には大きな化粧箱にヘアトニックからローション、香水など当時の人の中では随分とお洒落だったことが窺えます。
また、服は銀座で仕立てた上質なコートや革靴、ボルサリーノを着用していたらしいです。
そして煙草はピースという渋さ。
おしゃれすぎるだろ…。
(6)ライバル・土門拳
写真家として同じ時代を生きた木村伊兵衛氏と土門拳氏、土門拳氏がライバル意識を燃やしていたようで、この写真にもよく現れています。
少しおちゃらけた木村伊兵衛氏とそれを睨みつける土門拳氏。
彼らの被写体となった女優の高峰秀子さんが自身のエッセイ『にんげん蚤の市』にて「いつも洒落ていて、お茶を飲み話しながらいつの間にか撮り終えている木村伊兵衛と、人を被写体としてしか扱わず、ある撮影の時に京橋から新橋まで3往復もさせ、とことん突き詰めて撮るのだが、それでも何故か憎めない土門拳」と語っています。
2人ともライカやニコンを用いたスナップを撮る姿勢は変わらないと思うのですが、ポートレートを撮るときは気付けば撮り終えてしまっている木村伊兵衛氏と被写体がしびれを切らすほどにとことん突き詰めて撮る土門拳氏とある意味対極的だったことが窺えます。
作品の紹介
木村伊兵衛氏の作品をいくつか抜粋して僕の主観的なコメントを添えて紹介します。
紹介したい作品はたくさんありますが、語り出すとキリがないのでほんの一部を…。
かの有名な浅草にある神谷バーでの1枚。
このお酒、40度以上あり1杯がダブル(60ml)なので3杯も飲めば相当フラフラになってしまいます。(その心地よさが癖になるのですが)
この写真が撮られたときのコンタクトシートを見たことがあるのですが、この1枚を押さえるまでに何回かシャッターを切っています。
店内でここまで寄って何枚もシャッターを切るのは、流石に僕もまだまだ真似できません。
終始このおじさんはカメラには気づいていない様子。
眠いからなのか木村伊兵衛が空気になって撮影しているからなのか…。
隅田川花火大会の一夜を撮影した1枚。
木村伊兵衛の写真の中で最も好きな写真です。まさに圧巻。
屋根に乗って花火を見るなんて今じゃなかなかに考えられないシチュエーション。そしてなぜか傘を持っています。
そして物干し竿がとても良い位置に配置されていますね。
無くても良い写真であることは間違いのですが、より良い写真に仕上がっています。
この情景的なスナップからは花火の音が聞こえてきますね。
そしてパリでのスナップ写真。
アンリ・カルティエ・ブレッソンからパリの下町に精通しているロベール・ドアノーを紹介され、メニルモンタンをスナップ。
LeicaM3が発売された1954年にズマリット50mmF1.5と共に撮影したそうです。
当時開発段階であった富士フィルムのカラーフィルムで試験的に撮影した中の1枚。驚きのASA(ISO)10という超低感度のフィルムでの撮影。
パリの夕焼け、奥にはうっすらエッフェル塔が見えます。
コンコルド広場というところから撮影されたようで、雰囲気あるパリの情景を見事にフィルムに落とし込んでいます。
木村伊兵衛の秋田で一枚。
秋田美人という言葉があるように、秋田へ美人みたさに行くことにしたそうですが、そこの農村に魅了され、20年のうちに21回と幾度となく通い詰めて撮影されたそうです。
これはとある一家に上がり込んで撮影しており、当初の嫁というのは育児もしつつ家事をしていて、このシーンはせがむ子供にお乳をあげつつ、家族によばれているシーン。
女性の横顔にはどうやら緊迫とした焦りのようなものが窺えます。
まさに時代を切り取った一枚です。
まさに僕の好きな木村伊兵衛氏の下町スナップ。
レンズの特性を活かして綺麗にフレアを入れつつ、横断防止柵の視線誘導で自ずと子供とお婆ちゃんに目が行きます。
バレないうちにサッとスナップしたのでしょう。
僕が思うに
木村伊兵衛氏の写真は調べたらたくさん出てきます。
彼の写真はどこか俯瞰的ですが、全ての写真が俯瞰的というわけではなく、撮影によってはその人の家まで出向いて面と向き合って撮影しているいます。
これは僕にはまだまだできた芸当ではないです。まだそういうことができた時代というのもありますが。
いろんな図書などから当時、彼と親しかった友人らの語るエピソードを基に木村伊兵衛という人物がどのようなスタイルでスナップしていたのかを想像して僕もスナップしています。
ただ現代は彼の生きた昭和ではなく、令和なので令和に合わせた写真。
モノクロでの現像もしますが、最近はカラーで仕上げて現代版木村伊兵衛を目指しつつも、彼になれるわけではないので、彼のエッセンスを取り入れた自分なりのスナップ写真を目指して撮っています。
守破離でいうところの離を目指しているところですね。
これからも楽しくスナップしていきます。
以下、僕の撮影した写真です。(過去の記事にも投稿している写真もあります。)
写真は全てLeicaM10と50mmで撮影しています。
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