自分を主語にして生きる違和感
日々、いろいろな機会や出会いをいただき、不満が募るわけではないけれど、どこか自分が満たされなかったり、不良品(という表現が適しているかはさておき)に感じてしまうことも。
そんな私は、今年の1月1日。こんなnoteを書き残した。
ふと思い出して読み返し、「人のために頑張る」という理由ではなく、「自分がどうしたいか」「自分がどうしたら心地よいか」を理由に行動を珍しくしてみた。
人一倍、人のことは見えても自分が見えない人だということは自覚があったけれど、なんだか自分を軸にした方が良いのでは、という焦りが(先月また一つ歳を重ねたこともあってか)心の中にあった。
そんなとき浮かんだのが先述の記事にもあるこの一言。
迷う時間を圧縮して、自らが幸せになる様子をイメージする良いと思う
それを、試みた。
けれど結果は、なんか違った。
むしろ、全然違った。
迷子な気持ちはますます高まり、笑顔にしたい相手を困惑させ、自分も心身ともに脱力、無気力になりかける。上っ面はどうにか保てても、植物が根腐れしてしまうように、自分の真ん中にある柱が腐っていってしまいそうな焦りに、「たべること」に貪欲な私が24時間食事なし、なんてことも。(我ながら驚いた。)
24時間で初めて食べたソフトクリーム(ピスタチオ好き)も何か沈んでるし
一般的には、「自分」軸が大事なのではないかと思っている。だから人にもそう言いがち。でも、どうにも、こうにも、私には自分という軸がかけているのかもしれない、というか、自分を主体に動くともの事上手くいかない、と改めて実感。それがあるべきなのか、なくても良いのかわからないけれど、自分を主体に動くことはまだ私には難しいらしい。
一旦、軸を大事にしたい人たちに戻して、どうしたら相手が心地よいかを求めてまた明日の一歩を踏み出そう。
空虚になった先に生まれる一歩が、なんか周りにとって、そして自分にとっても良い方向に向きますように。
今年も気が付けばあと1.5か月。
二拠点生活にトライアル中。 各地域のこと、暮らし方のこと拙い文章ですが発信したいなと思います。サポートは移動費のカンパとして活用させていただきます。