見出し画像

「でもね、旧姓は・・・」選択的夫婦別姓について、心の側面から

私は選択的夫婦別姓について賛成の立場だ。理由は、姓が変わることで全ての登録名を変えなければいけないという具体的なデメリットがあるし、また反対派の方々の「日本の伝統、また名前を同じくすることで生まれる絆を壊す」と言う理由に合理性が感じられない、ということだった。しかし、先日記事にも書いたが、オードリー・タン氏著『デジタルとAIの未来を語る』を読み、合理的でない点、すなわち心の側面からも検討してみようと思った。

考えてみれば、信仰、季節の行事などといった心の拠り所というのは、合理性のないものである。合理性を究極まで追求すれば、お葬儀やお盆、クリスマスプレゼント、ビジネスマナー、食事の美しい盛り付けやお作法なども、一切取り除かれてしまうに違いない。そうなったら日々の生活は潤いをなくし、ギスギスしてしまうに違いない。

私の実家に大きな井戸があり、コンクリートでできた蓋(ふた)がしてある。その蓋には乗ってはいけないと言われていた。理由は「井戸の神様の頭を踏んではいけないから」。しかし大人になってその話を周りにすると、「蓋の上に乗ると危ないから、その話をして子供心に信じ込ませていただけじゃないか」と。なるほど、そうか。でも私は今でも、「井戸の神様の頭を踏んではいけないから」蓋の上に乗れないのである。私自身、これっぽっちも、合理性のみによって生きてなどいないのだ。

祖母が福祉施設でお世話になっていた頃。私は面会に行くと、共通のテーブルに座っている人たちにも、こんにちは、と声をかけるようにしていた。ある日、初めてお目にかかった女性に「お名前は?」と聞いたら、「忘れちゃった。でもね、旧姓は、フルカワよ」と、即答してくださったことがあった。

驚いた。もし30歳を過ぎてのご結婚であったとしても、結婚後の氏の方を使用していた時期の方が長かったはずだ。自分の名前を忘れてしまうことは、高齢になればあり得る話だが、それでも旧姓はすらっと出てきたのだ。私自身は、姓を変えることに抵抗はなかったけれども、不意に街の看板やテレビでその名前を見聞きしたときに、反応するのは旧姓の方である。友人も同じことを言っていた。自分が選んだ姓ではないけれども、理屈ではなく自分の一部なのだ。

もし姓を同じくすることで、絆が生まれると言うのなら、「姓を変えろ」というのは「実家との絆を絶て」ということではないか。通称名が認められたところで、もう戸籍にはかつての自分の姓名はないのだ。自分の意思でファーストネームを変えるには相当高いハードルがあるというのに、自分の一部である姓だけは国家権力で剥ぎ取られる。今反対派の方々が守ろうとしているのは、そういう制度なのではないだろうか。

合理的な理由でなく、自分の姓は、反対派の方々が考える以上に大事なものなのだと思う。夫婦で同じくしたいなら変えればいいし、自分の姓を名乗れる自由が欲しい、ということだけだ。反対派の方々は姓によって「家族の絆」を守ろうとしているけれど、絆とは、誰かの一方的なものであっては強くできないものだと思う。

後日、福祉施設でくだんの女性にまたお目にかかったとき、「こんにちは、フルカワさん」とお声をかけたら、スタッフさんに「あの人、私の名前知ってるわ!」とおっしゃっていたのが聞こえてきた。憶測でしかないが、喜んで貰えたのかな、そんな気がしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?