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日本フラメンコ業界の明日

2024年11月27日、名古屋にスペイン国立バレエ団が来てくれた。何人ものダンサーが同じ舞台で踊る「群舞」がメインの構成だが、ひとりひとりのレベルがとても高い。パンフレットでトップダンサーたちの経歴を確認すると、「舞踊学院」「舞踊専門学院」と名の付く教育機関を経ているのがわかる。そしてその成果は十分に舞台で発揮されていた。舞台で観客を魅了することができるのは、スペイン人だからではない、ロマの名門ファミリー出身だからでもない、もちろん胸に情熱を持っているからでもない。ショーを提供するのに必要なトレーニングを経て研鑽した人々だからだ。

フラメンコギタリストとしてご活躍中の徳永兄弟(康次郎氏、健太郎氏)のインタビュー記事の中で「フラメンコって、今は業界の中だけで回っているところがあって。」というコメントがあったがまさにそうだと思う。

2007年3月1日、アントニオ・ガデス舞踊団が名古屋公演に来た。このときの会場は愛知県芸術劇場大ホール。総席数は2,480席、東海地区(愛知・岐阜・三重)では一番の規模を誇る。ガデスは本人の舞踊もとても魅力的だが、フラメンコを舞台芸術に高めた歴史的な立役者でもある。彼は2004年に亡くなっているが、「あのガデス舞踊団が来る!」と喜び勇んで観に行ったにも関わらず、私のいた2階席はガラガラでガッカリしたのを覚えている。マヌエラ・カラスコの名古屋公演(2009年9月16日)は724席のアートピアホール。マリア・パヘス(&振付家シディ・ラルビ・シェルカウイ)の公演も同ホール(2018年4月5日)。イスラエル・ガルバンの名古屋公演(2018年11月2-3日)は646席の芸術創造センター。冒頭に挙げたスペイン国立バレエ団の公演は2,296席だが、音響の質が好ましくなく、せっかくのサパテアード(靴音)の音粒がクリアに聞こえなかったのは大変残念だった。これらのことから推定されるのは、「日本でのフラメンコは知名度が低いので、大箱では採算が取れない」と主催者が判断していることだ。なお、上に挙げたフラメンコダンサーたちはみな、カルロス・サウラ監督映画作品『フラメンコ』にも登場する超大物たちである。

一方日本のフラメンコダンサーたちの舞台はどうだろうか。スペイン料理店やライブハウス、小ホールなどで行われる舞台に足を運んでみると、おおむね身内と思われる人々で満席である。フラメンコの専門ウェブサイトなどでも、舞台作品やライヴのお知らせはあっても、公演後のレビューはほとんど見当たらない。どのようなショーだったかその場にいない人にはわからない。音楽でも美術でも、漫画であっても、作品を公開して建設的な批評を受け、それを反省材料として改善し、作家もパフォーマーも洗練されていくのが健全なシステムである。洗練されていけばこそ、メディアにも取り上げられて人々の間に徐々に浸透していくものだ。だが本場から大物が来ても、ふさわしいホールで人を集められないということは、日本のフラメンコが一般どころか、パフォーマンスアートファンにすら浸透していない「内輪ビジネス」になっているからだと考えられる。

なぜこのような状況に陥っているのか。私は日本でのフラメンコ受容黎明期れいめいきに、方向性を間違ったのだと思えてならない。西欧の舞踊と異なる東洋の雰囲気を持つフラメンコという舞踊を広めた背景には、「日本というブルー・オーシャンにおいてビジネスチャンスのある商品」という下心がなかっただろうか。真に通用する文化を育てるためには、それを伝える人たちは本場のオーソドックスな教育を受けた人で構成されるべきだった。日本で公演をするようなプロの舞踊団が確固たるバックボーンを持っている以上、渡西経験やスペイン人講師への師事で通用するという主張は説得力を持たないし、そもそも成果が出せていない。クラシックバレエやフィギュアスケートでも、熊田哲也氏や浅田真央氏のような世界で通用する名前を思い出せばわかることであり、「日本人だから本場には敵わない」とは言えないはずだ。

努力が足りなかったということではない。努力の方向が間違っていたのではないか、ということである。フラメンコに限らないが、業界の権威の言葉だからといって、正しいとは限らない。インスタグラムやYoutubeなどで見られる、スペインから発信されるパフォーマンスと、日本のフラメンコ業界の有名人たちのパフォーマンスを見比べて、自分自身でよく考えるべきだーー信用すべきはどのメソッドなのかと。フラメンコはよくも悪くも保守的な文化だと思う。今一度古典的なメソッドに立ち返ることで、見えてくるものもあると考えられるのである。

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