チャールズ・スポルジョン『朝ごとに』2024年2月2日


[18] だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。
[19] というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、
[20] 「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。
[21] また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。
[22] こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。

‭‭『ヘブライ人への手紙‬』‭9章18‭-‬22‬ 節‬‬

"Without the shedding of blood is no remission."Hebrews 9:22
「血を流すこと無しに、赦しはありえない。」
(ヘブライ9:22)


This is the voice of unalterable truth.
これは、永遠に変えられない真実の声だ。

In none of the Jewish ceremonies were sins, even typically, removed without blood-shedding.
ユダヤ教の儀式では、―たとえ慣例的なものであっても―、血を流さずに罪が取り除かれることはなかった。

In no case, by no means can sin be pardoned without atonement.
如何なる場合でも、(血による)償いなしに罪を赦すことはできないのだ。

It is clear, then, that there is no hope for me out of Christ;
for there is no other blood-shedding which is worth a thought as an atonement for sin.
したがって私たちにとって、血を流されたキリストの外には、何の希望も見出だせないことは明らかである。
罪の償いとして考慮する価値のある血潮は、他にないからだ。

Am I, then, believing in him?
では、私は彼を信じているだろうか?

Is the blood of his atonement truly applied to my soul?
彼の贖罪の血は、本当に私の魂に適用されるだろうか?

All men are on a level as to their need of him.
すべての人は、彼を必要としているというレベルにある。

If we be never so moral, generous, amiable, or patriotic, the rule will not be altered to make an exception for us.
私たちが決して道徳的でなく、寛大でなく、愛想がなく、愛国心がないとしても、私たちのために例外を設けるようにと、規則が変更されることはない。

Sin will yield to nothing less potent than the blood of him whom God hath set forth as a propitiation.
罪は、神が宥めとして与えてくださった方の血よりも、強力なものに屈することはない。

What a blessing that there is the one way of pardon!
「私たちには、赦しの唯一の方法が用意されている」というのは、何と幸いなことだろう!

Why should we seek another?
なぜ別のものを探そうとするんだ?

Persons of merely formal religion cannot understand how we can rejoice that all our sins are forgiven us for Christ's sake.
単に形式的な【キリスト教】を信仰している人には、「キリストの故に私たちのすべての罪が赦されたこと」が、何故私たちの喜びとなるのかが理解できない。

Their works, and prayers, and ceremonies, give them very poor comfort;
and well may they be uneasy, for they are neglecting the one great salvation, and endeavouring to get remission without blood.
彼らの仕事、祈り、儀式は、彼らにあまり良い慰めを与えない。
そこで彼らが不安になるのは必然である。
彼らは唯一の偉大な救いを無視し、血を流すことなしに癒しを得ようと努めているのだから。

My soul, sit down, and behold the justice of God as bound to punish sin;
see that punishment all executed upon thy Lord Jesus, and fall down in humble joy, and kiss the dear feet of him whose blood has made atonement for thee.
私の魂よ、座って、罪を罰する神の正義を見よ。 すべての罰があなたの主イエスにおいて執行されたのを見て、謙虚な喜びにひれ伏し、その血によってあなたのために償いをした、主の愛しい足に口づけせよ。

It is in vain when conscience is aroused to fly to feelings and evidences for comfort:
this is a habit which we learned in the Egypt of our legal bondage.
良心が奮い立つのは良いが、その際に慰めを求めて感情や証拠に飛び付いても無駄である:
これは私たちが法的束縛を受けていたエジプトで学んだ原則だ。

The only restorative for a guilty conscience is a sight of Jesus suffering on the cross.
罪の意識から解放される唯一の方法は、十字架上で苦しむイエスの姿を見ることである。

"The blood is the life thereof," says the Levitical law,
and let us rest assured that it is the life of faith and joy and every other holy grace.
レビ記に曰く、「血はその命である」。
イエスの血こそ、信仰と喜び、そしてその他全ての聖なる恵みを含んだ命であることを知って、安心しよう。

"Oh! how sweet to view the flowing of my Saviour's precious blood;
With divine assurance knowing he has made my peace with God."
「ああ!私の救い主の尊い血が流れるのを見るのはなんと素晴らしいことだろう。
そこには、彼が【私と神との平和】を築いてくれたことを知って、神聖な確信を得ることが伴うのだから。」





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