日本キリスト改革派岡山教会 2024年8月25日礼拝説教(使徒言行録 5章27〜42節)

【8月25日朝の説教】
◎聖 書:使徒言行録 5章27〜42節
◎説教題:「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」
〜十字架と復活の主を仰ぎ見る〜
◎説教者:柏木 貴志 牧師


ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主とし...

Posted by 日本キリスト改革派岡山教会 on Sunday, August 25, 2024

27彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。
28「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」
29ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。
30わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。
31神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。
32わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

33これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。
34ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、
35それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。
36以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。
37その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
38そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
39神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、
40使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
41それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、
42毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。

【メモ】
◎大祭司たち…「妬みに燃えて」(民衆が自分たちの権威に従わなくなるので)使徒たちを投獄した

“天使”が使徒を解放した

使徒たちは逃げることなく、再び福音を述べ伝えた。

◎28節「あの名」「あの男」…イエスの名すら口にしたくなかった。

◎最高法院「①お前たちは最高法院の命令(権威)に従わない」
「②あの男(イエス)はローマに反抗したから処刑された。それなのにお前たちはあの男が死んだ責任を我々に負わせようとしている」

◎使徒「① 人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」
「② わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。」

◎福音は聞く者の罪を糾弾する。それはその人を辱めるためではない。
その人が自分の罪を認め、『自分の罪に赦しを与えるために、十字架を担い復活してくださったイエス』を受け入れるため。

34節…ガマリエル(ラビたち以上に尊敬を受ける偉大な律法の教師)「あの者たちに関わるな」
=民衆の間に閉塞感・危機感が満ちている時、「我こそはメシアだ」という者が繰り返し現れた(テウダ、ガリラヤのユダetc.)が、指導者が逮捕・処刑されると、たとえ数千人の仲間がいてもあっという間に散り散りになった。

イエスも今までと同じ“偽メシア”なら、放っておいても自滅する。(逆にイエスが死んでもなお彼らが生き残るなら、イエスは本物のメシアかもしれない)
だから放っておきなさい。」

◎40節…最高法院は使徒たちに、「罪を認めさせるため」ではなく「辱めるため」に鞭で打った。(律法に違反する)

◎42節「福音を告げ知らせていた」…原文では動詞一語であり、より直訳するなら「福音する」

福音とは単なる情報・知識ではない。
神が人を救うために御自身を犠牲にした“行動”であり、それは必然的に私たちの行動をも決定付ける。

◎「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」
【人間に従う…「イエスが血を流して死んだことについて、私には何の責任もない。イエスに対しても神に対しても何の罪もない。」】
【神に従う…「神は罪人から逃げなかった(罪人を見捨てなかった)。
それどころか私の罪の報いを担ってくださった。
だから私も、罪人である私からも隣人からも逃げずに、重荷を担おう。」】

◎「神に従うこと」=「罪人として(罪人と共に)生きること」は確かに苦しい。他者からも辱めを受ける。
でも自分の罪の痛みを感じれば感じるほどに、それ以上に大きな神の憐みと赦しを味わうことができる。


【次主日(8月18日)の朝礼拝】
◎聖 書:ヨハネによる福音書10章22〜30節
◎説教題:「イエスの正体」
〜残暑長引くなか、聖書に記された「冬」の出来事を学びます〜
◎説教者:柏木 貴志 牧師








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