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◎聖 書:ヨハネによる福音書8章21〜30節
◎説教題:「真実に遣わされ、真実に去る」
〜神の御心のなかを生きるイエス〜
◎説教者:柏木 貴志 牧師
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【メモ】
◎「エゴー・エイミ」(「我あり」「我なり」)。
これが神ご自身による神の定義。
◎『ヨハネ』におけるイエスは、「エゴー・エイミ」の内容を掘り下げていく。
「我あり、世の光として/真のパンとして/道として/真理として/命として/復活として」
(「世の光/真のパン/道/真理/命/復活、それは我なり」)
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イエスはいつでもどこでも、私たちに答えてくださる。
「我あり/我なり」
◎イエス(神)は何故そこまでしてくださるのか。
=神は私たちが、罪の内に留まって死ぬことを望んでおられないから。
◎問い「善人が苦しみの内に、悪人が平安の内に死ぬことがある。
“良き生”と“良き死”は無関係ではないか」
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「どんな形で死ぬか」は全く問題ではない。
「あなたはどこへ向かっているのか、何者として生きて死ぬつもりか」
その事について、神は私たちに選択を迫る。
◎ファリサイ派「この男は自殺でもするのか(地獄に行くつもりか)」
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彼らには「自分自身がどこへ向かうのか、何者として死ぬのか」を問う意識が欠片もなかった。
だから神の御心を理解する事なく、「あなた方は自分の罪のうちに死ぬことになる」。
◎ファリサイ派「自分の罪の内に死ぬ?お前は何様なんだ!」
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イエス「お前らに聞く気が無いだけで、始めから言ってるじゃないか!
少なくとも俺が今言った事は、神様が『創世記』からずっと言ってきた事だろ!」
◎人間には、神の裁きに耐えるほどの善はなく、神の赦しを妨げるほどの罪もない。
そして神の裁きと赦しは、どちらも「罪の内に死ぬな、立ち帰って生きよ」という神の御心の行使である。
「神の御心に従うか否か」このこと一つが「命か死か」の分かれ道。
◎私たちは神について今更問う必要はない。
「神とは何者か、神の御心とは何か」それは既に明白である。
問うべきは「私は何者として生きるのか。命と死、どちらに向かって歩むのか」。