日本キリスト改革派岡山教会 2024年3月24日礼拝説教(マルコによる福音書15章33〜41節)
↓前回の説教↓
【3月24日朝の説教】
◎聖 書:マルコによる福音書15章33〜41節
◎説教題:「十字架に交わる告白」
〜暗闇のなかに灯る光の言葉に聴く〜
◎説教者:柏木 貴志 牧師
【メモ】
◎33節「全地は暗くなり」
→出エジプト10章(暗闇の災い)…頑なな不信仰者に対する神の裁き。
隣人の顔も見えないほどの暗闇が覆ったが、イスラエルの人々の間には光があった(神が見えた)。
◎35節「そら、エリヤを呼んでいる」
→マラキ4:5「メシアの先駆者としてエリヤが現れる」
=ユダヤ人たちは最後まで、イエスをメシアと認めなかった。
◎40節「婦人たちも遠くから見守っていた。」
→イエスの十字架を見上げた者が、復活の証人となる(16章)
◎34節「三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」 (34節)→詩編22編
◎「何故イエスはこの言葉を叫んだのか?」
ある人は言う。
【22編全体を読むと、「神から見捨てられた」という絶望と、「神は呼び求められる者を必ず救う」という希望を同時に歌っている。
イエスは十字架上でもなお神を賛美したのだ】
またある人は言う。
【イエスは実際に、神に見捨てられ、神への絶望を味わった。イエスが私たちに代わり「神の遺棄」を経験されたことを、この言葉は証している。】
↓
どちらも正しい。「希望」か「絶望」か、二者択一である必要はない。
◎イエスは人の罪を、神の怒りを、たった一人で担わなければならなかった。
助ける者も、共に苦しむ者もいない。
そんな人生最後の、しかも人生最悪の瞬間にあって、イエスは神を礼拝した。
その姿を私たちに示しているのではないか。
◎ 「わが神〜お見捨てになったのですか」よく考えると矛盾した言葉
→私が「見捨てられた」と思わずに居られない時も、神は「わが神」として共におられる。
◎私たちはこれからどんな「最悪の時」を迎えるか分からない。
しかし、いかなる時も神は私たちを見捨ててはいない。
あの神に見捨てられたイエスですら、神に見捨てられてはいなかったことを、私たちは知っている。
だからいかなる時も「神礼拝の場」となる。
◎詩編22編…嘆きの言葉が、唐突に賛美の言葉に変わる。
まるで落丁があったかのように。
↓
しかし神を信じる者は、嘆きの中で神の言葉が聞こえること、神の言葉が嘆きを喜びに変えることを知っている。
神礼拝とは、神に自分の思いを正直に伝えること、そして神の応答が聞こえるのを待ち続けること。
◎ 「百人隊長がイエスの方を向いて〜「本当に、この人は神の子だった」と言った。」(39節)
この時エルサレムに居た全ての者が、「イエスを十字架につけた者」としての責任を負っている。
その中でもイエスの手足に釘を打ち、イエスの死亡確認をするために、イエスの最もそばに居たのが百人隊長だった。
◎「イエスは大声を出して息を引き取られた。」
=直訳すると「イエスは霊を吐き出した。」
百人隊長はその霊を浴びた。
イエスの息の根を止めた者なのに、否だからこそ、彼は聖霊を身に受け、イエスを神の子として見ることが出来た。
◎「神に見捨てられた」と嘆きつつも「わが神よ」と呼び掛ける十字架上のイエス。
このイエスを仰ぐからこそ、私たちはいかなる時も神を礼拝することが出来る。
【次主日(3月24日)の朝礼拝】
◎聖 書:マルコによる福音書16章1〜8節
◎説教題:「復活の朝」
〜空になった墓に神の命を見る〜
◎説教者:柏木 貴志 牧師
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