チャールズ・スポルジョン『朝ごとに』2024年4月21日

23どうか
わたしの言葉が書き留められるように
碑文として刻まれるように。
24たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され
いつまでも残るように。
25わたしは知っている
わたしを贖う方は生きておられ
ついには塵の上に立たれるであろう。
26この皮膚が損なわれようとも
この身をもって
わたしは神を仰ぎ見るであろう。
27このわたしが仰ぎ見る
ほかならぬこの目で見る。
腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。

“I know that my Redeemer liveth.”Job 19:25
「私は知っている、私の贖い主は生きていることを。」(ヨブ19:25)


The marrow of Job’s comfort lies in that little word “My”—”My Redeemer,” and in the fact that the Redeemer lives.
ヨブの慰めの骨髄は、「私の」−「私の贖い主」という小さな言葉にある。
『贖い主が生きておられる』という事実にあるのだ。

Oh! to get hold of a living Christ.
ああ、生きているキリストを手に入れることだ!

We must get a property in him before we can enjoy him.
私たちが彼を楽しむには、まず彼の内にある宝を手に入れなければならない。

What is gold in the mine to me?
私にとって“金”とは何か?

Men are beggars in Peru, and beg their bread in California.
人々はそれを求めてペルーで乞食になり、カリフォルニアでパンを乞う。

It is gold in my purse which will satisfy my necessities, by purchasing the bread I need.
私の財布の中には十分な金がある。
それで必要なパンを買い、必要なものを満たすことができる。

So a Redeemer who does not redeem me, an avenger who will never stand up for my blood, of what avail were such?
では、私を贖わない贖い主、私の血のために決して立ち上がらない復讐者、そんなものが何の役に立つというのか?

Rest not content until by faith you can say,
“Yes, I cast myself upon my living Lord; and he is mine.”
信仰によってこう言えるようになるまで、満足して休むことがあってはならない。
「そうだ、私は生ける主に身を投じよう;彼は私のものだ。」

It may be you hold him with a feeble hand;
you half think it presumption to say,
“He lives as my Redeemer;”
yet, remember if you have but faith as a grain of mustard seed, that little faith entitles you to say it.
あなたが彼を抱いている、その手の力は弱いかもしれない。
あなたはこう言うことを、半ば烏滸がましいと考えている−
「彼は私の贖い主として生きている。」
しかし、もしあなたが芥子種一粒ほどの信仰しか持っていないとしても、その僅かな信仰が、あなたにそれを言う資格を与えていることを忘れてはならない。

But there is also another word here, expressive of Job’s strong confidence,
“I know.”
しかし、ここにはヨブの強い自信を表す別の言葉もある。
「私は知っている。」

To say, “I hope so, I trust so” is comfortable;
and there are thousands in the fold of Jesus who hardly ever get much further.
「そう願っている、そう信じている」と言うことは気楽なことだ;
そしてイエスの許には、それ以上のことを殆どできない何千もの人々がいる。

But to reach the essence of consolation you must say, “I know.”
しかし、慰めの本質に到達するには、「私は知っている」と言わなければならない。

Ifs, buts, and perhapses, are sure murderers of peace and comfort.
「もし」、「しかし」、そして「おそらく」といった言葉は、平和と安らぎを確実に殺すものだ。

Doubts are dreary things in times of sorrow.
Like wasps they sting the soul!
悲しみに沈んでいるとき、疑いは暗い陰を落とす。
スズメバチのように、そいつらは魂を刺す!

If I have any suspicion that Christ is not mine, then there is vinegar mingled with the gall of death;
but if I know that Jesus lives for me, then darkness is not dark:
even the night is light about me.
「キリストが私のものでない」という疑いを少しでも抱くなら、そこにあるのは「死の胆汁の混じった酸い汁」だ。
しかし、イエスが私のために生きておられることを知るなら、闇は闇ではない:
夜でさえ、私の周囲は明るい。

Surely if Job, in those ages before the coming and advent of Christ, could say, “I know,” we should not speak less positively.
確かに、キリストが到来し出現する前の時代にヨブが「私は知っている」と言えたとしても、私たちは余り大胆に語るべきではないだろう。

God forbid that our positiveness should be presumption.
私たちの積極性が僭越に繋がることを、神は禁じている。

Let us see that our evidences are right, lest we build upon an ungrounded hope;
and then let us not be satisfied with the mere foundation, for it is from the upper rooms that we get the widest prospect.
根拠のない希望に基づいて建てないようにするために、私たちの証拠が正しいことを確認しよう。
そして単なる基礎に満足しないようにしましょう。
というのは、「上の部屋」(使徒1:13)からは最も広い展望が得られるからである。

A living Redeemer, truly mine, is joy unspeakable.
「生ける贖い主、真に私のもの」、それは言葉にできない喜びである。




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