
貧しさとは何か
貧しい人が祝福される。これは、福音の原点である。
では貧しくならないと祝福を受けることができないのだろうか?
お金を持っているかということよりも、私達は元々貧しさを抱えながら行きている、ということをイエスは語っている。
生まれながらのコンプレックス、取り返しのつかない過去の失敗。
それを、「私は知っているよ」とイエスは語る。
私達の前には、その貧しさを告白することができる。
その貧しさに気づいた時、イエスへの道が開かれていく。
自分は何でも出来ると思っていると、イエスは必要と思うことができない。
ルカ7章は、イエスが異邦人と関わる場面。
あなたは外国の人だから、約束の民ではない、と思われていた人々のもとに、祝福が届いていく瞬間。
イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムにはいられた。
ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。 百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。
当時多くの奴隷は、使い捨て同然であった。しかしこの百人隊長は少し違った。
なんとかして助けたいと思い、ユダヤ人の長老に助けを求めた。
イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」
長老たちも百人隊長のちからになりたいと考えていた。
哀れみを受ける資格のある人だ、と。
イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
資格は、私にはありません
長老たちは会堂建設をしてくれたことを引き合いに出してふさわしい人であることを熱弁していた。
しかし一方でこの百人隊長は自らをふさわしくない、と述べた。
彼はイエスの前に助けを求める時、自分の功績は意味がないことを知っていた。
ただお言葉をください。イエスの言葉があればそれで十分である。
と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
仕事柄、百人隊長は権威をわかっていた。
発言者の力。
同じように、イエスはこの世界に対する権威を持っていることを彼は認めていた。
イエスが命じれば、病気さえもイエスに従うと。
そのイエスの言葉、神の約束を私達はどれだけ信じているだろうか。
今の時代、言葉の軽い時代。
過激な言葉を使わないと、人の心に響かない時代。
約束は軽く、破られても仕方ない時代。
イエスの言葉には、権威がある。
これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」
イエスは驚いた。百人隊長の信仰に。
使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。
私達は様々な背景を持って生活をしている。
その生活のなかで、神の真理をしることができる。
ユダヤ人たちは異邦人を嫌っていた。彼らが律法を守らないことで、自分たちも汚れると思っていたからである。
その見方を逆転させよ、と聖書は語る。
貧しさの自覚。
本来誰しも祝福にふさわしい生き方はしていない。
一生懸命クリスチャンとして生きているほど、
自分の実績が積み重なってくることがある。
でも本当に必要なことは、私は病のうちにある、
だから神を必要としている、という姿勢。
ただで受けた恵みを、ただで与える。
それにより、神の恵みは広がっていく。