困らない時の神頼み
箴言 3:5-6 2024 06 05 (水)心をつくして主に信頼せよ、 自分の知識にたよってはならない。 すべての道で主を認めよ、 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
人はそれなりに「怖いもの知らず」の時代があったかもしれません。今がその時だという人もいるでしょう。飛ぶ鳥を落とす勢いとか、肩で風を切る、という表現がぴったりの人も世の中にはいるようです。そこまでではないにしても、自分に自信を持つことは良いことです。自分の長所や良い変化や達成したことを誇ることはまんざら悪いことではないでしょう (ただの自慢はいただけませんが)。
出る杭は打たれる文化の中にいるとはいえ、自分を誇ることまで否定するのはやり過ぎでしょう。クリスチャンの場合は「神さまがこのように良くしてくださったのです」と言うことによって、健全に自分を誇ることができます。かくして自慢することなく、優越感に浸ることなく、神の恵みとして誇ることが可能です。しかし自身は人から褒められることを前向きに受け止めないと身につかないものです (中にはほめられると居心地が悪いという人もいますが、それなりの理由あるのでしょう)。
このように自信を持つことはいいのですが、人間は有限な存在です。自信や誇りに依存するなら限界に突き当たります。禍福はあざなえる縄のごとし、順境と逆境が交互にやってくるように見えます。盤石だと安心していたら、梯子を外されたり、落とし穴があったり、想定外のことが起こったり、計画が破綻したりと、逆境は自分のせいでなくても降りかかります。年を重ねるほど人生はコントロールできないことを思い知らされるものです。
しかしこれは悪いことでもありません。自分の限界に打ちのめされされると、人生に対してへりくだれるようになるからです。もしかしたら自分は何者かによって生かされているのではないか、良いも悪いも運命が導いているのではないか、これは宗教の目覚めだと思います。宗教嫌いの人は珍しくありませんが、聖書によれば、潜在的に神を求めていない人は存在しません。生まれたときから神を求めるようにインプットされているからです。人間が宗教的でないことは不可能です。
そこで今日の金言です。「心をつくして主に信頼せよ、 自分の知識にたよってはならない。」自分が当てにならないことがわかったら、誰が当てになるのでしょうか。伴侶、親、子ども、友だち、人生の先輩、専門家、医師、弁護士、宗教家なとでしょうか。残念ながら人間である以上、人生に答えは持っていません。また心は変わるので、誰も頼りにはなりません。
唯一当てになるのは人間を発明した神さまだけです。製作者ですから人間の取り扱い説明書を持っており (聖書のこと) 、人生がうまくいかない時は説明書に従って自分を修理し、メインテナンスできます。また同時に製造メーカーに問い合わせることもできます。それが祈りです。神さまへの119番通報とも言えるでしょう。いずれにせよ自分の知恵、知識、能力、経験では間に合わない新しい事態に対処するには、神の助けを求めるのが賢明ではないでしょうか。神は全知全能であり、あなたのことをあなた自身より深く知っていますから、任せてだいじょうぶです。曲がりくねって見通しの悪い道も、気がついたら神さまがまっすぐにしてくださったことを知るでしょう。