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神の愛と厳しさ

詩篇 103:8     2025 02 24 (月) 
主は あわれみ深く 情け深い。怒るのに遅く 恵み豊かである。

ここには神さまのご性質が端的に表れています。主が怒る神であることには旧約も新約も違いはありません。旧約の神は恐ろしく、新約の神は愛に富む、などという違いもありません。旧約の神と新約の神は同じ方です。神は私たちを愛すればこそ、罪に対しては怒ります。もし私たちの不義に対して怒らないなら、私たちには無関心ということになるでしょう。あなたが悪いことをしても、わたしは痛くも痒くもない、というお方ではありません。けれどもその怒りは罪そのものに対してであって、私たちの人格に向けられることはないのです。罪を憎んで人を憎まずというわけです。

こうして神の怒りは私たちの上に下る代わりに、十字架のキリストの上に存分に注がれました。私たちが神の子になった瞬間から神の怒りは取り除かれています。そして神さまの感情は怒りよりも愛がはるかに勝ります。「あわれみ深く、情け深く、恵み豊か」 と怒りの三倍もあります。しかも怒るのに遅いというのです。神の忍耐の堤防が決壊するのはよほどのことです。甘すぎず、厳しすぎず、実に 「憐れみは裁きに打ち勝つ」(ヤコブ2:13) とあるとおりです。もし神さまが情け深いよりも恐ろしい方であると感じている人がいたら、きょう認識を改めましょう。自分が何か間違いを犯したら、すぐカッとなって容赦なく責め立て、罰を与えるという短気な神は異教の神です。そんな幼稚で子供っぽい神観は捨てましょう。

神の憐れみは山よりも高く海よりも深いのであって、わがままで自我丸出しで忍耐力に欠ける私たちとは違うのです。神さまはクリスチャンを成熟させるため、トラブルにあえて介入しないことがあります。自分で蒔いたものは自分で刈り取らせます。それが愛だからです。可愛い子には旅をさせよということでしょうか。ひとり立ちさせるために困っているわが子を助けないでいる親のほうが辛いでしょう。同じように父なる神は愛情の塊であるがゆえに、私たちが失敗することを止めません。その痛みによって自分を変えるように訓練させるからです。「憎くては 叩かぬものぞ 笹の雪」(雪でかしいでいる笹を叩くことは哀れに思うゆえだ)。甘やかす愛ではなく、成熟させる愛です。

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