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赦しの宗教
ルカの福音書 17:3 2025 02 17 (月)
あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟 (誰か) が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。
以前、クリスチャンでない人から「キリスト教とは何ですか」と尋ねられたことがあります。ちょっと考えて「それは赦しの宗教です」と答えました。赦しとは人間関係の大原則であり、毎日必要な営みです。なぜなら人間は罪深く不完全なために赦される必要を感じており、同時に誰かを赦すべき立場に置かれているからです。
満員電車で経験することは、人から足を踏まれることです。また同じように人の足を踏むことです。これだけでも言葉にしないながらも、赦してもらい、赦してあげるという営みが生じます。身近な人々との関係ではなおさらでしょう。家庭や職場、学校や友人関係では赦したり赦されたりという営みを自発的に意識的にすることを怠れば、良い関係は保てません。逆に言うと、謝ったり赦したりテンポよくすることが互いの親密さを増し加えます。もし身近に仲のよく見える家族や職場があるとすれば、誰かが赦しというものを意識して行なっているからでしょう。
人間関係では一に赦し、二に赦し、三四がなくて、五に赦し。これほど重要な営みは他にありません。ひたすら和をもって尊しとなす、のではなく、ちゃんと意見を述べ合って、赦し赦されるのが聖書の道です。主イエスは人を赦すことについて的確なことを言っています。まず人を赦すことは簡単ではないこと。ほんとうに赦せるようになるためには「赦し続ける」ことだと言っています。つまり思い出すたび、胸の痛みを覚えるたびに意識的に赦すことです。そのとき赦せないという権利、仕返しする資格を手放す必要があるということです。
これは辛いことです。自分と同じ痛みを味わってほしいと願うかもしれませんが、相手はどこ吹く風かもしれません。また人間の復讐心に満足はありませんから、毒は抜いてしまうのが賢明です。ひそかに相手の不幸を願っていると、心と健康を蝕むだけで、老けるのも早いかもしれません。さらに賢明な道があります。公平なジャッジをしてくださる神さまに復讐心を預けることです。それを手放し、相手を赦し続けることです。そうすれば痛みは和らぎ、思い出す回数も減ることでしょう。