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中期中絶という選択

※こちらの内容は気分が悪くなる方もいらっしゃるかと思います。
ご自身の判断で 無理のない様 お願いいたします。


妊娠の中絶手術。
「中絶」という言葉を きいて 皆さんは どう感じますか?
「人殺し」「中絶するくらいなら そういうことをするな」「無責任」「子どもが可哀想」   など…
キリがないくらい たくさんの言葉が出てくるだろう。
中絶に関しては 否定的な言葉が出てくるのは仕方ないのかもしれない。
それでも 妊娠をして どうしたらいいか悩んでる女性に そのような言葉をかけるのは 間違っていると思う。
妊娠というのは 1人では実現できるものではないからだ。
相手の男性がいないと 妊娠は成立しない。
それなのに 中絶を選んだ女性だけが いつも心無い言葉をぶつけられる。
妊娠中とは ただでさえ ホルモンバランスなどが不安定で 感情も起伏が激しくなるのに
そのような心無い言葉をかけられると 妊婦さんの心はもたないだろう。
当事者でない人間が  傷つける言葉を吐くこと  できればやめて欲しいと私は思っている。


これは 私の懺悔を含めた 中期中絶の 記録である。

私は 3回妊娠した経験がある。
3回とも 相手は誰かわからなかった。
それでも 産みたいと思っていたけれど、1回目と2回目の妊娠は 心拍確認できる前に、赤ちゃんは死んでしまった。
とても 悲しくて とてもつらかった。
だって 私の子どもだから。
妊娠の経験をすると、また妊娠した時なんとなく勘でわかるようになる。
今年の8月末に 妊娠検査薬の陽性反応がでた。
9月に 胎嚢の確認。
2回 流産した経験から とても不安だったのを覚えている。
1度目の妊娠の時に、両親には 中絶するよう言われた。
職場の人には 「妊娠したのはお前の責任。中絶するまではなにをしても妊娠しないんだから 稼げるだけ稼いだら?」と 心無い言葉を言われ 私はトラウマになっていた。
だから、中絶できない時期まで 黙って妊娠を継続して両親には 報告しようと 今回は思っていた。
何度経験しても つわりは本当にキツかった。
食べても吐いて  食べなくても吐く。
そんな毎日の繰り返しに 心は病んでいく。
支えてくれるパートナーはいない。
両親にも頼れない。
私は 1人。 これから子どもが産まれたら1人で子どもを守っていくんだ。
でも、私には経済力がない。精神障害者手帳2級で 精神的にも安定していない。
両親にも頼れない。 パートナーもいない。
そんな状況で子どもを育てられるかというと馬鹿な私でもわかる。 難しい。
中絶なんかしたくない。子どもを殺すなんて嫌だ。
私が悩んでる間も お腹の中では 元気に子どもは育ってくれている。
悩んで悩んで どうしようか迷っていた時、父方の祖父が亡くなった。
訃報の知らせをきいて、今このタイミングで堕ろすのは違うと 私は思った。
祖父の生まれ変わりなんじゃないかと思った。
お葬式が終わり、四十九日が終わり 妊娠11週を過ぎ、初期中絶が出来ない時期になった頃
両親から 今回の妊娠は諦めて欲しいと言われた。
私のことの方が大事だからと、身体の負担も少ないうちに 早めに手術して欲しいと 何度も連絡が来た。

両親が私のことを 大事に思ってくれるように、私にとったら 自分のことより、自分のお腹の子どもの方が大事だった。

同じ親なら 何故この気持ちをわかってくれないのか、少し腹が立った。

その時私は、妊娠5ヶ月。 お腹も目立ち始めていた。
中絶を促す両親からの連絡、妊娠による身体のしんどさ、これから1人で育てていくという不安。
それらの感情に 押しつぶされて、何度も お腹の子どもと死のうと考えた。

でも、我が子に罪はない。  本当は産みたい。

それでも 産むことを許してもらえず、中絶の選択をした。

12月6日  その日に入院する前に、私は アカチャンホンポに行って  服やおもちゃなどを探した。

プラスチックやポリエステル製品は 棺に入れられないからと 綿製品を探すのにはかなりの時間がかかった。

可愛い服や靴、おもちゃがいっぱい売っていて、私も赤ちゃんを産んで、こんな服を着せたかったな…と思いながら眺めていた。

はらぺこあおむしの靴下と ガーゼ類、おもちゃ、絵本、手袋などを買った。
そして 急いで、赤ちゃんの大きさに併せて、ガーゼ類を使って おくるみとスタイ、肌着を手作りした。

入院するまでに 何度も泣いた。 

でも、私の声がお腹の子どもに聞こえてしまうからと 中絶に関する言葉は できる限り言葉に出さないようにした。
つらくても 我慢した。 聞こえてしまったら赤ちゃんが不安になると思ったから。

12月6日 当日、母親が入院するために付き添ってくれた。 
「なにそのたくさんの荷物」って言われたけど、そこに赤ちゃんの服やお菓子やお花をいれていたことは言えなかった。
「私の親が 私の子どもを殺そうとしてるんだ。」と思っていたから。

病院に着いて、入院の手続きをして、病室に行く前に 術前処置をされた。
とても痛くて 泣き叫んだ。 私の手を看護師さんが握っていてくれた。
お腹に鈍い痛みが走り、軽い出血を見た時、赤ちゃんの死へのカウントダウンが始まったことを実感した。
2人部屋に案内されたけど、退院するまで私はその部屋に1人だった。


12月7日、午前10時頃   もう一度 ラミナリアをいれる。痛くて どれだけ我慢しようとしても涙がでる。
「痛い…!痛い!!!」と叫ぶ私に 看護師さんが声掛けをしてくれる。
20分くらいで 処置が終わり、病室に戻る。
私が入院した 病院は ご飯がとても美味しくて、それだけが唯一の楽しみだった。
普段、TVはあまり観ないけれど、時間を持て余していたからなんとなく観ていた。

そして次の日、12月8日。 

午前10時頃、看護師さんに呼ばれて、分娩室に入った。
そして、点滴で薬を入れてもらう。 
膣剤を 奥の方にいれられて、これが 子宮を収縮させる薬になるらしかった。
鈍い痛みが 波のように くる。
膣剤が出ないように トイレに行くこともできない。
生理痛のような痛みが ギューッと来た時、子宮から 卵が出てくるような 感覚。
「あぁっ…!!!」そう叫んだときに、破水だとわかった。
11時24分頃 破水。
一気に 水分がでてくる。
ここからは 陣痛が来るのを待って 産むという形になる。
痛みが波のようにあったけど、いまいち ピンと来ない。
12時20分頃だと思う。
助産師さんが 子宮口がどれだけ開いているか見に来てくれた。
そして 誘導したら 生まれそうだということで、分娩台に移動する。
助産師さんが 指をいれて グリグリと 圧迫してくる。
痛い。痛すぎる。
「痛い…。痛い…!」と 叫びながら、助産師さんの声掛けにあわせて いきむ。
「そうそう!とても上手! もう1回!」
私は子ども産むの初めてなんだけどなぁ…と思いながら 必死でいきんだ。
私の赤ちゃんは 逆子だったらしい。 足から出てきて、頭が引っかかって なかなか出てこなかった。
子宮部分を 手で抑えられたりしながら 赤ちゃんが出てくるように誘導する。

12時47分  生まれた。 男の子だった。
赤ちゃんは 産声をあげず、そのまますぐに 別の部屋に連れていかれてしまった。

私が 我が子を殺した瞬間だった。

連れていかれる前 無理に顔を上げて 子どもを見ようとした。 
とても小さく、それでも 手や足、顔はしっかりとヒトの形をしていた。
気づかれないように  腕で 目を隠して 泣いた。
まだ、胎盤を出さなきゃいけないけれど、悲しくてつらくて仕方なかった。
胎盤が なかなか出てこず、赤ちゃんを産むよりつらかった。 
胎盤が子宮内に残っていると 良くないので 最後に主治医の先生が診察してくれた。
とても痛くて また「痛いぃ…!」と叫んで泣いた。

たったの数時間で さっきまで生きてた我が子は いなくなった。

心の喪失感ももちろんあったけど、なにより 数ヶ月ずっと一緒に過ごしてきたお腹に 赤ちゃんがいないという現実が とても苦しかった。

ふっくらしていたお腹は ぺしゃんこになった。

その夜は 自分を責めて泣いた。

小さな赤ちゃんの姿を思い出して泣いた。

私が死ねば良かったのに、私だけ生きていてずるいよな、私のエゴで殺してしまって 怨まれるよな…

後悔ばかりが 押し寄せて  本当は産みたかったと、ごめんねって 泣き続けた。
そして こんな残酷な決断を降した 私の両親を 許せなかった。
私は一生 自分の両親を許さない。


身長  21cm   体重 230gの小さな男の子だった。

名前を 「心思」 と名付けた。

心思は 運良く 御骨が残り、今は私の家にいる。

出かける時などは  声をかけている。

生きてた証が残ってくれた。 それだけでも嬉しい。

後日談は  またいずれ何処かで。


読んでくれた方は ありがとうございました。



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