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誰かのために整えること、一人でいること

 三茶庵は我々にとって多機能オフィスである。予約がある時はもちろんカウンセリングルームになり、予約がない時にはなるべくバッティングしないように気を遣い合いながら、3人それぞれの個人オフィスにもなるし、3人揃っての打ち合わせやお茶をすることもある。部屋の備品は新しく買ったものもあれば、ある物を持ち寄ったり個々に追加購入したりしたものもある。
 
 ここ三軒茶屋は誠に交通の便が良く、買い物や気晴らしの散歩も手軽にできて、とてもよい街だ。要するに、街も部屋も、たいへん居心地が良い。それをうまうまと味わいつつ、久しぶりに近所のお花屋さんで切り花を買って生け、お茶を淹れてBluetoothスピーカーで好きな音楽を流しながらこれを書いている今なのだが、それはもう心地がいい。自宅の自分のワークスペース以上にリラックスしてP Cに向かえていると思う。

 コロナ禍以降、都内にはコワーキングオフィスが爆発的に増えたし、それ以前からカフェで仕事をする人は一定数いた。私はそのどちらも経験済みだが、少なくとも私にとって三茶庵ほど落ち着ける場所はなかった。これは断言できる。自宅よりもそれは一体どうしてだろうと常日頃考えていたが、今日ふと思いついた。

 おそらく三茶庵は私にとって、いわゆるサードプレイスなのではないか。
 
 サードプレイスとは、第一の家、第二の職場とともに、個人の生活を支える場所として都市社会学が着目する場所のことである。オルデンバーグ(2013)によれば、そこでは人は家庭や職場での役割から解放され、一個人としてくつろげるという。
 
 みこと心理臨床処は3人の女性心理職のユニットである。その3人とも、多くの心理職がそうであるように、複数の仕事を掛け持ちしている。そして全員、ここを出れば妻だったり母だったり娘だったりもするわけだが、その隙間でここに来て一人になれば、何でもない「わたし」が顔を出すのだ。少なくとも私は。
 
 部屋を整えてクライエントを待つ時とも心持ちが違う。誰も待たずに、ただただ自分のためだけに好きなように持ち込んだ仕事をしたり考え事をしたり本を読んだり、好きに空間と時間を使えるのが、今の私には大変な贅沢に感じる。別に仕事や家庭運営がめちゃくちゃストレスフルということではない。ただ時々、少しばかり私には刺激が強すぎたり多すぎたり、背負った役割が急に重く感じられたりすることはある。そういう時に取れる選択肢が、今までの私には皿洗い(お皿洗うとリフレッシュしませんか?)かゴミ捨て、犬の散歩くらいしかなかったが、これらはやりたい時にやるというよりも毎日の義務でもあるので、義務感が優った時には苦役である。一人カフェもいいが、疲れていると目に映る人の姿や耳に入る言葉からあれこれ連想してしまって落ち着かないし、好きにストレッチしたり頭掻きむしったり大きくため息をついたりしたら変な人になってしまう。
 
 結果、あらゆる観点から見て、三茶庵での一人時間は何にも勝る。
 
 何ならここに住んでしまえばいいかなどと思うこともあるが、住んだり寝泊まりしたりしたら何かが違ってしまうのが直感的にわかる(うたた寝は含まず)のでしない。
 
 閑話休題。
 
 そんな緩くも贅沢な三茶庵での時間にも、当然だが終わりはくる。次に使うメンバーのために、また部屋を整え直して、鍵を閉めて“よし”となったら家路につく。
 
 なんだかこの一連の流れ、心理療法のそれと似ているような気がするのだが、どうだろうか。
 
 サードプレイスは、本来的には街や村といった私が思うよりももっと大きなコミュニティの中の場所を指すが、3人という小さな小さなコミュニティの中でも十分に機能していると思う。
 
 ところで、そんなミクロなサードプレイスを備えているみこと心理臨床処が開いて3年目に入った。願わくば、サポートが必要な多くのひとに、三茶庵の居心地の良さをお裾分けできますように。
 
 みなさま、今後ともよろしくお願いいたします。

               (C.N)


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