心は裏腹なんて言わないで
と 歌ったのは竹内まりやですが、これって本当なのでしょうか。まあ、そういうときもあるよね、とは思うのですが、いつもってことはないでしょう、というのがまずひとつ。それから、言葉と裏腹なのは女心だけなのか、というのがふたつめの疑義です。男心は裏腹じゃなくて、いつも直球なのだろうか? だとしたら男という生き物はあまりにも単純すぎないですか?
おっと、別に歌詞に文句をつけたいわけではないのです。この歌の詞のように、女心はいつも言葉と裏腹、つまり女性は本音を言わないものだ、という価値観が浸透している社会では、女性が何かを言ったときに、いちいち裏腹の本心を考えなければいけないので、大変に面倒だし、人間関係が難しいものになってしまうな、と思ったのです。
「嫌よ嫌よも好きのうち」とか言いますが、これ本気ですか? 「言葉では嫌いと言ってるけど、本当は好きなんだから気づいてよね」なんて、面倒くさ過ぎる・・・。
「勝手なこと言わないでくれ、嫌なものは嫌だから」と私は思いますし、好きなときははっきり「好き」と言いますから、ご心配なく、です。
こんな性格の私ですが、男も女も、心が言葉と裏腹になることもあると思っています。それは、心で感じることと、頭で考えた答えが違うときです。
例えば、ある仕事をあなたに任せようと思うんだけど、やってみるか?と上司に打診されたときに、正直な心は、「初めての仕事は怖い、無理かもしれない」と思っているけれど、冷静な頭では「これは自分にとってチャンスだから、勇気を出してやってみるべきだ」と判断したとします。このとき、「はい、やってみます」と回答すれば、心と言葉は裏腹、ということになるでしょう。
あるいは、恋人が自分の知らない友だちと遊びに行ってくる、と告げたとき、本心ではヤキモチを焼いて「行かないで欲しい」と思っていたとしても、恋人にとっては色々な友だちと交流することがいいことだし、ここは気持ちよく送り出してあげたいなと思って「全然大丈夫だよ、楽しんできてね」といって送り出す。これも心と言葉が裏腹になる場面ですね。
こういう場面で人が口にしている言葉は、確かに心と裏腹な部分があります。けれど、口にした方の台詞を選択したのもその人自身です。正直な気持ちより、理性的な回答を選ぶのが大人としての態度と言うことも出来るかもしれません。
そしてこういうとき、ちょっぴりの勇気や我慢とともに口にした言葉を、その人の責任ある言葉として受け取りたい、受け取って欲しい、というのが私の考えです。心は言葉と裏腹だなんて言わないで、ひとりの大人の責任ある言葉として、尊重して欲しいです。
これは別に、言ったことは全部責任持ってひとりで最後までやらないといけないとか、出来ないことはやるっていうなとか、そういう話ではないんです。
言う方にとっても、聞く方にとっても、大人として自分の言葉に責任を持つ、責任を持つ証として自分で考えて発言をする、ってすごく大事だと思うんです。自分が出来ないかもと思っても、出来ないって言ったら嫌な顔されるかなとか、評価下がるかなとか思って「出来ません」と言うのは怖いものです。でも、「やります」と言ってしまうのも怖いんです。出来なかったらどうしよう・・・となりますからね。
でもそれで返事を曖昧にされると周りは迷惑しますよね。その人がはっきり答えないことで、周りは察することや、待つことを強制されるわけですから。そういう態度の人は大人扱いできません。だから、「女心はいつも裏腹」だとか、「嫌よ嫌よも好きのうち」と言っている間は、その人を一人前の大人扱いしてないと思うのです。
だから、男女問わず、腹くくって発言したら、責任もたせてほしいのです。そして大事なことなのですが、責任を持つというのは、何が何でもやり遂げることではなくて、逃げ出さないことや、出来なかったときに誠意を持って説明すること、目標の達成のために人と協力し合うことなどが含まれているということです。失敗したときに辞職することだけが責任をとることじゃないですよ、と。こういう角度で日本社会を見たときに、大人になれていない、歳だけ取っている人って、少なくないような気がしてきます。
自分の言葉を、重みのある言葉としてきちんと受け取められる体験を通して、人は自分の言葉に責任を持つようになるのではないでしょうか。心からの本音も、やせ我慢の決断も、思いやりの白い嘘も、どれを選んで口にするかを決めるのもその人の「心」だから、裏腹だなんて言わないで、正面から聞いて欲しいし、私も聞いていきたいです。
(文責:M.C)
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