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「マザリング」を読んで 

 中村佑子 「マザリング 性別を超えて〈他者〉をケアする」 (集英社文庫)を読み終えた。家にいると家事が目についてしまうので、読みかけの本を携えて出かけた、図書館の閲覧室で。

 多くはないとは言え、人目のあるところで泣きながら読書をするのは些か恥ずかしいので、目に溜めた涙が溢れないところで、なんとか読了し、読み終わってからトイレの個室で少しだけ泣いた。なんで泣いたのか、うまく言葉には出来ない。言葉に出来ないから、涙が出るのかも知れない。

 著者の中村さんも、言葉に出来ない感覚を手繰り寄せるようにして、この本を書いている。この、内側を揺さぶられて泣きたくなる感覚は、もともと言葉にしづらいものなのかも知れない。
 
 今日我々が暮らしている社会は、感情が理性より一段低いものとして扱われる社会で、濡れていたりぐちゃぐちゃしたりするものは排除され、清潔で、整然として、予測可能で機械的に動くものが良しとされる社会だ。そこで、未熟だったり、病んでいたり、不安定だったりする存在は、とても生きづらい。

 現代の合理的な社会において、月経や、妊娠・出産による「揺らぎ」を抱えた女性の肉体はそもそも排除されている、と中村さんは指摘する。女性だけではない、病気の人や、子どもや、老人も、合理性や効率性を重視する社会では能力のないものとして排除されるか、社会のお荷物的な扱いを受ける。そういう社会では女性も、自分の肉体の揺らぎをないものとして、有能な大人の一人として振る舞う。

 しかし、女性にとって妊娠・出産とは、自分の胎内で赤ん坊が育ち、身体のフォルムも感覚も勝手に変わり、最終的には自分の身体の中で育った赤ん坊を命がけで外に生み出す、という経験である。一度動き出した自然のプログラムは、本人の意志に関係なく、進んでいく。自分も自然の一部なのだ、と思い知る経験でもある。

 そのとき、母になった女性たちは、言葉を失う。これまで使ってきた言葉では、生まれたての赤ん坊と母である自分が渾然一体となった状況を表すことは出来ないからである。

 そうして言葉を一度喪失した中村さんが、様々な人へのインタビューを通して集めてきた言葉たちに、無数の共感と共鳴で胸が一杯になりながらページを繰った。

 私には「女」という性別が割り当てられていて、「女」として「男」から見られ、「女」として社会から扱われる。その事実に、無数に傷ついてきたこと。この本を読むと、それらが繰り返し思い出される。子どもを持って幸せだとか、子どもは可愛いとか、そういうことによって帳消しには出来ない、自分の肉体に合っていない器の中で、あちこち痛めながら、不自由しながら、生きていることを自覚せざるを得なくなるのだ。

 これは単純にマイノリティとしての女性の生きづらさの話ではないし、女性の権利向上を求める声でもない。他者を受け入れるための空洞を内側に抱え、受け入れたいと自分でも願いながら、それによって同時に傷つく、そういう生き物としての自分に、女性自身が気づいていく話だ。

 弱いものを助け、命を守り、次につなげていこうとする「マザリング」のなかに、資本主義、経済合理主義に変わる価値観が見つかるのではないか。
我々の多くはケアを求めながら、その行為に経済的な価値を認めず、ケアする者の地位を低くとどめている。そのことに抗議の声を上げたい気持ちと、ケアの価値を資本主義社会の物差しで測る必要があるのだろうか?という問が同時に生まれる。揺らぐ。

 この揺らぎを捕まえて、言葉にする旅のバトンを、私達読者は中村さんから受け取ったようである。
 
 
※    マザリング:子どもやその他の人々をケアし守る行為。「マザリング」は性別を超えて、ケアが必要な存在を守り育てるもの、生得的に女性でないものや自然をも指す。

                  (M.C)

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