心の機能
気持ちの良い初夏の日曜日。お昼前の三軒茶屋駅周辺は、見渡す限りのひと、ひと、ひと。ざわざわと絶え間なく耳に届く、人の足音、いろんな言語の話し声、遠くで聞こえる車の音。雑踏、とはまさにこの光景のことである。
私は何を間違ってこんな雑踏の中に立ち尽くしているのかと言えば、陽気につられて、お昼を外で取ろうと、カウンセリングルームから出てきてしまったせいなのだ。みことのカウンセリングルームは小さいが安全で静かなので、週末の三軒茶屋がどれだけ人で溢れているかを、私はついつい忘れてしまう。
お気に入りのお店は当然のように満席で、すぐには入れない。ふと見れば、何処にでもあるチェーンのファストフード店の前にさえ行列が出来ている。テイクアウトだって時間がかかりそうだ。昼休憩の残り時間を考えると仕方がない、とため息をついて、コンビニで軽食を買ってカウンセリングルームに戻ることにする。
戻る道すがら、雑踏と思っていたものを、もう少し解像度を上げて見てみる。案外人々は、何処か浮かれて楽しそうである。外に置かれた簡素なテーブルと椅子を囲んで、お酒を飲みながら赤い顔で談笑する若者たち。飲み物を片手に、笑いながら通り過ぎていく男女。私の前を、母親の腕にぶら下がる様にして歩く小さな女の子。ああ、この街は今日も平和だなと思って、ホッとすると、雑踏の中でもさっきより少し、楽に息ができるような気がする。
行き交うのは知らない人達には変わりないけれど、誰もが泣いたり笑ったり、落ち込んだり立ち直ったりしながら、一生懸命生きている人で、それぞれの人生に物語があるのだろうなぁと思うと、優しい気持ちになれる気がする。
お気に入りのコーヒー屋さんで、顔見知りの店員さんと話しながら水出し用のコーヒー豆を選んで、挽いてもらう。店に漂うコーヒーの香りを吸い込んで、私は今度こそ人心地がつく。相手の顔をちゃんと見て、言葉を交わすことで、自分の輪郭がはっきりするというか、ここに自分がいるのだということがはっきりするのだ。
さっきまで縮こまっていた心にも血が通い、柔軟性を取り戻していく。自分が雑踏の中に立ち尽くしていると思うとき、雑踏は雑踏であり、行き交う人達は意味のある他者ではない。私を個人として見てくれ、扱ってくれる相手といるときに、私は私になれるし、相手も私にとって意味のある他者になる。
知らない人ばかりの雑踏の中に、ひとりきりでいるとき、多分私は、パタンと心を閉じている。自分と関わりのない人達はたくさんいても、居ないのと一緒。
閉じた心は内に向くこともあるし、無心になることもある。だから、心を閉じている時間も大切だ。深く思考するのは、たいてい閉じているときだとも思う。それに、常に他者に対してアンテナをはるのは疲れるので、それがものすごい数の人となると、疲弊してしまって仕方ない。だから、人混みでは閉じていて、他者と関わるときに、また開く。
この開け閉めが自由自在のとき、心はうまく機能している、と言えるのかもしれない。うまく機能する心は、柔軟で、開け閉めが自由で、時には大きなものを抱えこむことが出来るし、時には固く閉ざして危機を乗り切ることも出来る。
そんなことをひとりで考える昼下がり。読んでくださったあなたの心は、うまく機能しているだろうか?
(M.C)
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