血は水よりも
と聞かれたら、皆さんはどう続けますか。ことわざ通り、
と続ける方が大方でしょうか。
私なら…
と続けたいところです。
家族間の言葉のやり取りは、時に何よりの安寧をもたらすこともありますが、時に赤の他人の言葉よりも心に深く突き刺さり、呪いとして刻まれることもあります。
例えば『きのう何食べた』『大奥』を代表作とする漫画家のよしながふみ氏の作品『愛すべき娘たち』の中で、娘の外見をめぐる母娘の葛藤が描かれた回があります。
このエピソードの前後や詳細については作品をお読みになっていただきたいと思います。
これを傍から見てみれば、些細なことに見えるかもしれません。しかし思春期の女の子が、母親が第三者に向かってこの子は美しくない、などと笑いながら話す場面に同席することがどんなにつらいことかは想像に難くありません。
そしてこれと似たような葛藤を抱えたまま成長してきた少なくない数の娘たちが、現実の今を生きているのです。
家族は甘く温かいだけではありません。そこには外側からはうかがい知れない毒や痛み、傷が隠れていることが多くあります。
「血は水よりも濃い」。それはその通りでしょう。しかしその『血』は水のようにさらさらと流れていくものではありません。
時に淀み、時に濁流となり、そこに属する人たちの傷口からほとばしることもあるのではないでしょうか。
それはなぜでしょう?
総ての父親は不完全な一人の男であり、総ての母親も同じく不完全な一人の女だからだと、私は思います。そう考えると、家族とは不完全な大人と未熟な子どもたちがたまたま寄り集まっただけの集団とも言えるでしょうし、そうである限り、親子間の愛憎は連綿と続いていくでしょう。
もちろん、不完全なことも未熟であることも悪いことではありません。ただ、人が根源的に抱える不完全さによって起こるものは、喜劇だけではなく悲劇も数多くあります。それに対処するための処方箋は、親も子どももお互いに、そして自分自身に完璧さを求めず、ほどよい自分でいられる時間を持つことではないでしょうか。
私たちカウンセラーは、そのために皆さんの話を聞き、ありのままのその人でいられる時間を提供できる数少ない職業だと自負しています。
いずれ社会全体がその不完全さを甘受し、私たちが互いの不完全さを補いあえるような流れになっていければいいと願ってやみません。
(文責C.N)
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