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心は口ほどにものを言うか

心というのは面白いもので、姿かたちは見えないのにあると分かる。不思議なものですね。その心をどうにかして見ようとすると、それは他の媒体を使って表す(表される)ことになります。
一つは、よく心と対になるものとして言われる「身体」です。身体の感覚や顔の表情などを通して、私たちは心を表層化します。しかし、それも案外単純にはいかず、涙が出て泣いていれば必ずしも「悲しい」ばかりではありません。悔しくても涙が出るし、嬉しくても涙が出ることがある。胸が締め付けられるように「苦しい」場合でも、悲しくて苦しいのか、辛くて苦しいのか、腹が立って苦しいのか、最後にそれを決めるのは自分の心です。
 
ところが、この自分の心というものを、常に自分が分かっているかというと、それはまた必ずしもそうではありません。自分では、腹が立って腹が立って怒り狂っているつもりでも、他の人から「そんなに怒るほど悲しかったんだね」と言われて、ああ、自分はそうだ悲しかったんだ、と気づくこともあります。
そう、このように、心を表わすために「言葉」を使うという手段もあります。モヤモヤした感じを、言葉に当てはめることによって光を当て、自覚できるということもあるのです。
 
また、それは言葉でも身体表現でも足りず、音楽になることもあるでしょう。扉を「バタン」と強く閉めた音で表現されることもあるかもしれません。
人によっては、絵の中にその心を映し出すという手法を使う場合もあります。
 
こう考えると、心を表わす方法って、色々ありますね。でも、方法がいくらあったとしても、直接「心」がそれで見えるわけではありません。何かしらの媒介を挟んでやっと、その姿を垣間見られるもののようです。この何かしらの媒体の一つに、「他者」も含まれるのかなと思います。
 
自分は一人かもしれませんが、他者となると、色々な人がいますね。人だけではなく、動物や物も広い範囲で自分ではない他者であると言っても良いかもしれません。そうすると、その他者ごとに映し出される自分の心は、その時々で形を変え、案外いっぱいありそうだし、つかみどころがありませんね。
 
そう、心は常に一つでは無い。それが、自分を苦しめたり、惑わせたり、疲れさせたりしてしまいます。逆に、辛い時でも楽しいことがあれば笑えたり、悲しい時にも一筋の希望を見出すことが出来たりもします。
 
それだけ、心は色々な面があり、形があり、表現があり、豊かさを秘めています。
 
でも、その心は、「心」だけでは、具現化できない。
ただ、自分の心は、自分で感じることは、出来ているのかいないのか。意外と心は、ものを言わないような気がします。
 
あなたは、どう思いますか? 自分だけで自分の心をどれだけ、確固たるものとして感じ、信じることができるでしょうか?
 
 日々の中で、私たちは、あの手この手で心と向き合ったり、時には目を背けだましだまし進んだり、翻弄されたりしながら、暮らしています。
 今日だってほら、明日に続く日常のその憂鬱さに、不安に、楽しみな気持ちに、何となくソワソワしたり、しなかったりしながら、一日を終えていくのです。
 
 そんな心たちの織り成すあれこれについて、この一年、コラムを通して考えていきましょう。
                (K.N)

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