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「ていねいな暮らし」に憧れるのはなぜ

 
ていねいな暮らしに憧れている。漠然としたイメージしか持ち合わせていないのだが、たぶんていねいな暮らしというのは、住まうこと、食べること、着ることなど身の回りのことに手間暇をかけて、規則正しく、心身健やかに暮らすことではないかと思っている。
 
例えば、朝の澄んだ空気を感じながら、玄関の掃き掃除をして1日を始めるとか。天気のいい日には必ずお布団を干すとか。季節の野菜や魚を、きちんと下ごしらえして、素材の味を生かした薄味の料理にしていただく、とか。
 
現実の私は、朝起きたら洗面所に直行して顔を洗い、着替えて簡単なメイクをする。日によってゴミ出しをしたり、洗濯物を干したり、昨夜洗いカゴに残した食器をしまったり、出掛ける時間ぎりぎりまで家事をして、バタバタと仕事に出かける。せっかく入れたお茶を飲めずに時間切れになることも珍しくない。玄関の掃き掃除? たいてい「もう限界!」の状態になってやっとする。
 
仕事が終わった夕方以降も、やることが山積みで食事時以外ゆっくり座る時間もない。風呂上がりにせめて・・・とストレッチを始めると、そのまま床で寝落ちする。これからの季節は寒くて体調を崩しそうなので、やめておく。
 
丁寧な暮らしをするためには、時間が必要なんだ!と改めて気づく(今更である)
出来ればあと1時間、せめて30分、朝早く起きたら、出勤前の時間はゆっくり出来るかも知れないが、そのためにはもともと多くない睡眠時間を削るしかなく、睡眠時間を削ってするていねいな暮らしって、何なんだろう?となるので、それはしたくない。
 
することを減らせればいいのだが、家事以外にやりたいことがたくさんあるので、今時点で「しなくてもいい家事」はほぼしていない。時間が空くと、そこに予定を詰めてしまう性分だし・・・(失笑)

冒頭に戻るが、私が憧れる丁寧な暮らしが、「住まうこと、食べること、着ることなど身の回りのことに手間暇をかけて、規則正しく、心身健やかに暮らすこと」だとしたら、身の回りのことに手間暇をかける、以外はできている。毎朝だいたい決まった時間に起き、夜までたくさん働き、家族と一緒に心身健やかに暮らしている。それでいいじゃないか、と思う。
 
なのに、「手間暇をかけた暮らし」に憧れてしまうのはなぜなのだろう。手間暇をかけることが「良いことだ」とどうして思うのだろう。「手間ひまをかけた食事」を作ることが家族への愛情の現れのように思うのは、なぜなのだろう。逆に言えば、冷凍食品や惣菜を食卓に並べることに、罪悪感を持つのはなぜなのだろう。整理整頓が得意じゃないことに、引け目を感じ続けているのは、どうしてなのだろう。他に得意なこともあるのに、整理整頓や掃除が苦手なことは、ずっとずっとコンプレックスだ。
 
要するに、私が「ていねいな暮らし」に憧れてしまうのは、私がそれを「良いこと」なのに「自分は出来ていない」と思っているからなのだろう。でもそれは、私が勝手に思っていることで、家族から「手間暇かけて家事をしてくれ」などと頼まれたことは一度もない。(仮に惣菜や冷食が続けば苦情は出るが、だったら自分が作るよ、と言ってくれる家族である。)
 
本当はそこまで頑張らなくてもいいこと、負い目に感じなくてもいいことなのに、自分で自分にプレッシャーをかけていることが、あなたにもないだろうか?

もし思い当たることがあったら、とりあえず一度、下ろしてみようか。私も、「ていねいな暮らしへのあこがれ」を、ちょっと横に置いてみようと思う。そうしたら、今までより軽い足取りで進めるかも知れないし、背筋が伸びて視界が開けるかも知れない。その報告は、また今度。

                          (M.C)

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