友がみなわれよりえらく見ゆる日は
表題は
という石川啄木の有名な歌の上の句を少々変えてみたものです。こうしてほんの少しでも変えてみると、啄木の歌の才能と、彼が抱えた痛いほどの孤独がありありと伝わって来ますが、それはさておき。
どうして自分だけ、という思いがもたらすものは本当に多岐にわたります。
そんな時は自分というものが卑小に見えて仕方なく、新しいものに手を伸ばしたり新しい場所に足を踏み入れたりといったことは難しくなるような気がします。
自分がそんな場所やものにふさわしいと思えなくなるから。
そしてそうこうしていると「どうして」という言葉が「どうせ」へと変容していくこともあります。この「どうせ」という言葉は、新しくつくかもしれない傷を最大限回避するための呪文のようなもの。
それが、上手な傷の回避の仕方かどうかは別の問題です。けれど自分や環境について「どうせ」と矮小化することに慣れてしまっている人は、子どもにも大人にも結構いる。
啄木が「どうして」と思ったか「どうせ」と思ったか、本当のところはもちろんわかりませんが、けれど彼は花を買って妻とそれをみて心慰められたのでしょう。その方法はうまいなあ、と思うのです。
少なくとも彼は自分の輪郭を確かめられる場所があることを知っていたようですし、共に花を見て親しんでくれる妻もいたことが、この歌からわかります。
自分が小さくつまらない存在に見えた時は手当てが必要です。それに必要なのは、他人の手。
「どうして」という苛立ちや、「どうせ」という悲しみと諦めで自分や他人を無力化する強力な呪文に対抗するには、自分ではない誰かと時間を過ごし、自分の形を取り戻すことです。
その相手は家族でもいいし、パートナーでもいいし、友達でもペットでもいい。掛け値なしにあなたをあなただと見つめてくれる存在。
人は誰しも、取るに足らない存在であると同時に、誰かや何かにとってかけがえのない存在です。この一見矛盾した内容を矛盾なく受け取れた時、人は大人になるのかもしれません。
(C.N)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?