宮城集落探訪①~川内追廻地区の現在~
宮城県の廃村について調べていると、必ずと言っていいほどこの地名を目にする。この川内追廻地区は仙台駅から2km強、青葉城の近くにある「消滅集落」だ。
なぜこのような都会(と思うのも傲慢かもしれないが)にぽっかりと穴が空くように無住の地区があるのか、そのルーツを辿るには戦後まで遡る必要があるらしい。
川内追廻住宅は、元々満州引揚者や仙台空襲で焼け出された人々への仮設住宅だった。仮設住宅なので、仙台市は復興がなされたら解体し公園を造成する計画を立てていた。
しかし住人らは立ち退きを拒否し、電気水道道路などのインフラ整備を自分たちでやってしまった。そうすると市も容易に手がつけられなくなり事態は膠着する。そしてそのいざこざが戦後何十年も続いた……という流れがあるらしい。(詳しくはWikipedia「川内追廻」を参照。)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%86%85%E8%BF%BD%E5%BB%BB
やがて時が経つにつれて残留する世帯も減っていき、10年前の2011年には57世帯102人までになってしまった。
そうなると気になるのは現在の状況だ。市街に近く、自転車通学の高校生である私にも行きやすかったため、部活帰りにふらっと寄ってみた。
広瀬川にかかる大橋を渡り左手を見ると、そこには公園造成のための平らな用地が広がっていた。
ここがかつての追廻住宅、そして川内追廻の現在だ。
その面影は全くと言っていいほど見られない。
Googleマップを見ると、公道がもう少し伸びていたので進んでみた。
青葉城の堀にそって伸びる道路を進んだ先には、公園の完成予想図があった。青葉山公園の「いこい・にぎわいゾーン」という名前らしい。
ここからのアングルもかつてなら奥のマンションとのアンバランスさに不思議さを覚えたのだろうが、今ではただの新興開発地にしか見えない。
唯一面影を感じ取れたのは下の写真だ。
この道路だけは住宅がまだあった頃と同じように、工場の運搬車か何かが通るのに使われていた。
とは言っても数年前まであった木柱などが取り払われているのは、ストリートビューと比較するとわかる。
茂みなのか並木なのかも伐採され、川沿いの一般住宅も見えるようになっている。
他の人が書いたブログを見てみると、2010年頃まではまだ住宅が何軒か存在していたようだ。
2010年といえば私は幼稚園児だった。小さかった頃、両親に青葉城に連れていってもらったような記憶があるので、もしかしたら私は在りし日の追廻住宅をこの目で見ていたのかもしれない。そう考えると何か時間というものの絶対さ、儚さを感じる。
川内追廻沿いの道路は意外と車通りがあった。奥にテニスコートがあるせいだろうか。また、歩道ではおそらく仙台二高であろう陸上部がランニングをしていて、程よい賑やかさがあった。
ここの一帯には青葉城や博物館などがあり、とても杜の都らしさを感じられる街並みだった。
川内追廻住宅が生まれ変わった後の土地も、その雰囲気を加速させるのに一役買ってくれるのだろう。
これにて宇治の宮城集落探訪(仮)【第1回】とさせていただく。
最後に1枚、大橋からの川内追廻住宅跡
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