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理由はあとからいくらでも

ある人を催眠術にかける。
「あなたは催眠術にかかりますが、かかった事を覚えていません。そして、時計を見る度に四つん這いになります。」
そして催眠術にかかった人に「今何時ですか」と訊ねると、四つん這いになる。
「どうしたんですか?」と聞くと
「落ちたボタンを探しているんです」とか、「ここにコンタクトが飛んでしまったみたいで」とか言うそうだ。嘘をついているわけではない。本人は至って真面目だそうだ。
そうなった理由を自分で作っているのだ。

催眠術にかかっていない状態で、私達に起きた出来事というのも、理由なんていくらでもあとから作る事が出来るという事だ。
試験に合格した事も、しなかった事も、結婚した事もしなかった事も。子供が生まれた事も、子供が生まれなかった事も。事故にあった事もあわなかった事も。
何故今、私がこうしてnoteを書いているのかも、あなたが何故今その家に住んでいるのかも、何故その場所に行こうと家を出たのかも、何故今隣にいる人と出会ったのかも。何なら、どうして生まれたのかということも。

理由なんてあとからいくらでも作れるという事なのだ。理由なんていらないのだ。

旦那が突然死んでしまってから、旦那は自分の人生に満足して死ねたのだろうかという事や、私はどう生きて行けばいいのだろうかという事を3年も毎日毎日ずっと考えている。

やりたいからやる。
行きたいから行く。


そうやって我慢せずに思うままに楽しい事、やりたい事をして行けば、気づいた時には「あー面白かった」って満足して死ねるんじゃないかとちょっと思った。

だってそうなった理由はあとからいくらでも作れるからさ。


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