さらなる無駄な文章が生まれた

例え、置き換え、あるあるによる共感でラジオの面白さってできてるよなと一昨日霜降りのANN聴いてて思った。
最近というか、家に帰ってくると、昼夜逆転してしまう。家っていうのはいいものだ。守られている、誰の視線もない、一戸建てなら尚更、アパートと違って飛び跳ねても風呂を沸かしても何も言われない。
いろいろ運動もできるのに、していないな。ベッドの上から動いていない。昼間に眠ることの幸せさ、温かい中でまどろむ魅力に勝てない。昼間に動いたとて、まともに動いている人たちの目を感じて辛くなる、動くなら深夜だが、最近はもう寒いので外に出たくない。
昨日眠ったのは日が変わってそんな経っていなかったはず、だけど起きたのは夕方4時ごろだった。何度か起きて、二度寝を繰り返したからね。確かお父さんに会った。夢ってすごいよね、現実を元にして新しい現実を作る。
現実味があって、過去の見事な延長上にあった。地元は遠いし、帰ってもなかなかかしこまった話しかできないけど、昨日は近況報告のようなちょっとくだらない何気ない話ができた。詳しくは覚えてないけど、起きた時に眠っていた時間にまた戻りたくなったのを覚えてる。だから起きれないのだよ。
温かいお茶を飲み、ストーブをつけて、炭水化物を食べると、体温が上がる。カイロを貼って、Twitterを巡回してインスタを流し見してTVerでぽかぽかを見ていたら、目が疲れてしまって眠りたくなった。
血糖値を一回あげると、良い微睡の中から眠ることができる。眠れないことに悩みながら、足の冷えと首筋の寒さと、真っ暗の中で体を抱えて眠るよりも良い。どうして人間は夜に眠るようにできているんだろう。

何かで読んだ、人間は眠るために起きている。デフォルトは睡眠状態ではないかという記事。自分のメインも寝ている時間だ。あまりに長時間眠ってしまうので、心地よい睡眠を求めることが怖い。自分への罰のように睡眠環境を悪くしている。
実家にいたときは、罪悪感を埋めるように、床板の上にヨガマットを敷いて毛布を二枚体にかけて寝ていた。体が痛くなっても、それに安心したし、睡眠時間が短くなるわけでもなかった。
今は六万円の寝袋で寝ている。改めて思うと高価だな。nangaというメーカーの冬山アウトドア用のもの。それをキャンプ用のコットというのか、足付きの簡易ベッドで眠る。すごく肩が凝る、気持ちも悪くなる、多分年間寝る用ではないんだろう。
いつもどこかへ逃げられるという状態でいることが楽だ、と人に説明をしたことがある。そうでないと怖い。今住んでいる場所も居候だし、自分の所有物は車一台に乗るものだけにした。
生活しているといろんなものに記憶が乗り移ってしまって、一時期に多くのものを捨てることになった。今思えばもったいなかったと、活用することなくゴミ袋に入れてしまったことで、夢に出てくることもあるし、環境に良くないことをしてしまったと、自分を責める一端になることもある。自分の持ち物にすごく思い入れを持ってしまう性格なんだろう。
鍋やまな板や包丁を捨ててしまったし、それならば元々買うべきではなかった。生きてこなければ良かったのにと思うまでが一つの流れである。 飛躍だとはわかっているがそう思ってしまうのだから仕方がない。
長く使い続けた棚や布団や何かを見ると、いろんなことを思い出してしまう。ああーと叫んで記憶をかき消したり、皮膚を掻きむしったりして紛らわしていた。若い頃は知らないことが多いし、周りも無遠慮無神経なのでトラウマ的な出来事が多い。それは理解するけど、きつかったねと言ってあげたい。
今は比較的体から出血することも少ないし、住む場所の湿度が高い気候もあると思うけれど、体の痛み痒みに燻されるような感覚もない。昔を知る人との縁もほぼ切ったし、継続することができないと悟った。
何かに囚われてしまう感覚になる。過去に出会った人と話したり関係を持ち続けることで、居た堪れなさや怖いという感情が湧いてくる。その人を大切にすることで自分を大切にできていないという感覚だろうか。
合わせるタイプだというのもあるけれど、見栄を張りたい性格というのもあるか。その人にはもう自分は見合わない、見合うような話題を見繕う作業が辛い。もうそれは自分ではない。
この傾向は中学を卒業して人間関係が変わった頃から始まっている。その時は新しい自分を見られることが恥ずかしかった。ステップアップするのに、前の自分に戻されてしまうことが邪魔だったという感覚かもしれない。
その人たちには見せていない表情で生活していこうと決めたので、親にも観に来ないでほしいと言ったりした。
高校を卒業して人間関係が変わった時は、体型が崩れてしまったので見られることが恥ずかしかった。あとは本来の自分を見せられたわけではなく、その場を生きるための人間関係だったので連絡し合うことも無くなった。自分の淡白さに引いた。本当の自分は誰にも見せていないという感覚が強くあった。
大学を卒業した時は、もう精神的にボロボロだったのでさらに恥ずかしいという気持ちが強まっていた。見た目だけじゃなく本当に興味のあることで人と繋がれるかもしれないと思い始めていた。
でも精神的に弱っていたのでそれは人には伝えられず、気づいて欲しいと願っているだけだった。夜勤の長時間勤務で眠れないという辛さがあった。太陽が上るととても眠くなったし、本当に辛い。眠りたい時に眠れないというのは本当に辛い。
人間に働きかけて仲良くなるという手順を踏んでこなかったので、信頼関係を築かなければいけない職種というのもしんどかった。別に仲良くなりたいと思っていないし、心を許して欲しいとも思ってなかった。ただ仕事をさせて欲しい、それだけだったけど、一般の人間よりも人間らしい人々の中で力尽きてしまった。
仕事を辞めて、体調もすごく悪かったので、病気だと思っていた。病院を回って嫌な検査を受けても、病気は見つからなくて、ただただ具合が悪い。痛みでのたうちまわったり、ただ体調不良に悩まされ続ける毎日で本当にがっかりした。
死ねると思って、ここでいろんなものを捨てた。よく一人で引っ越せたと思う。仕事を辞めても体が動かず、動こうと思えば動くんだけど、動かしたくないという強い気持ちが働いて、ただただ眠り、深夜にコンビニへ行ってお腹をいっぱいにしてまた寝ることを繰り返した。たった数畳の部屋がどうしても片付けられない。掃除をどうしてもやりたくない、鳥肌が立つほど気持ち悪い、元々汚い中で生活している方がずっと楽だった。自分はもうダメだ、終わりだと思っていて、その中で救ってくれたのはCreepy Nutsと星野源のラジオだった。ANN Rという枠でお試しで喋り出したクリーピーは、引きこもっている自分よりダメな二人だった。
こんな生活をしている自分が、クレイジーだと思う生活をしている人に出会うなんて思わなかった。下には下がいる、と思うことは精神衛生上有効なライフハックである。のちにDJ松永がおすすめしてくるのだが、それをラジオで体現していた。落ち込んだ時は下手なDJの動画を見るといいと勧めてくれた、もっと下手なやつがいると笑うことで元気になると。なんて人だろうと思った、常識はずれも甚だしいが、それを大きな声で教えてくれることがなんとも爽快だったし、それに救われている自分がいたので何も言えなかった。小学校の先生に言われた道徳から外れても大丈夫、ラップって面白いんだと教えながらそう伝えてくれた。
久々に笑った、大笑いした。今でも覚えてる。まだ自分笑えるんだ、吹き出して笑いがとまらない、声に出して笑ってしまって止められないことに驚いた。ずっと狂っていて、自分の無だった感情が押さえつけようとしても敵わなかった。
しかもサンプリングなどDJについては博識で決して無駄な時間だとは思わせない。ラップとは何か、サンプリングコーナーもあの頃はまだあって、キッチンの上に立てかけた携帯から松永さんの声が聞こえてた。それを足がかりにどうにか引っ越し作業をして実家へ戻ることができた。
星野源はちょうどブレイクした頃で、ラジオで弾き語りをしてくれた。面白いことをしようという気概あふれた時期で、そんな強い気持ちを一リスナーまで巻き込んで届けてくれることに感動していた。辛いとどれだけ周りに気づいて欲しくてアピールをしたとて、誰も助けてくれなかった。その中で自分の気持ちを励まして揺り動かしてくれるのは、一度も会ったことのないテレビとラジオの向こう側にいる人間だった。

ドロドロになって実家に帰り、だんだんと親とも話せなくなって、また本やネットに入り浸るようになる。その頃人間関係はメールからLINEに連絡方法が移行していて、退会して入り直したり無駄なことをやった。働いていた時の人間から連絡が来ることが本当に嫌で、紐で繋がれた気持ちになって辛かった。一度返事をするとすごく気になってしまって、それなら連絡をしてきてほしくない。何の恩も返さずに生きている。
その頃はまだ自分の人生どうなるんだろうという不安、このまま何年も親元で暮らして行ってはいけないという焦りがあった。よくその下で生きていたと思う。美味しいご飯があって、眠れる家があって、ずっとこのままがいいという気持ちに嘘がつけず、ずっと家にいたいという気持ちは今もある。ただし親にとっては不安なものがあるはずなので、それだけを足がかりに今は家を出ている。
いつか地元に戻りたいという話を一回したが、親にとっちゃそれも困るかもしれないなと最近思う。親には親の人生があるので、あまり干渉してはいけない。平和を乱す存在だ。

こう考えるとずっと縁を切って生きてきている。いくらお世話になったからといってそれが足止めになるわけではない。もう人と関わるのはやめていきたい。どうやって緩やかに死んでいけるのか、それだけを考えたい。
向こう側にとっちゃ居た堪れない経験だろう、仲の良かったと思っていた人から縁を切られるのは。かわいそうだ。ただし、たまに生存確認をしてくる人間たちの気持ちだけは理解ができないので教えてほしい。
急に連絡をとってくる人、自分の近況を知らせてくる人はすごいねと感想を述べればいいので良い。元気かとかこちらを伺ってくる人は、なんなのだろう。私が生きているからってなんなのだろう。それを知って何の意味があるのか問いただしたいが、それをやってはいけない気がしているのでしない。めんどくさいだろう。
だから、私がいつの間にか死んでいたという状況に追いやってみたい。それもきっと気づかないだろう、ただ返事が返ってこないだけ。親に聞く人もいないだろう。
どうしたら死ねるだろうか、病気にもなれないし、行動を起こすのもしんどい。それを考えている時間だけが充実している。


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