美容室行った

今日美容室行って、1時間か、美容師さんと話した。終わった後やっぱり疲れた。そもそも朝起きた時点で15時だったし、行きたくなくて。いや起きたくなくて。モゾモゾしてやっと起きて、パン焼いてシャワー浴びる間も行きたくないから、時計を見たくなくて。時間やばいな、何分かかるかも調べたくなくて、行きたくないから。そうなると遅刻するんだ、時計見なかった割に思ってたより時間経ってなくて、それでも10分は遅れることになって。車出したら片側交互通行で5分くらい待たされたから、それを理由に美容室に謝る電話を入れたことは自分を褒めたい。その理由がなかったら電話せずに8分遅れて行っていたたまれない時間を過ごしていたかもしれない。多めに遅れる時間を伝えることができる勇気を、なんとか時間を過ごすことで手に入れた。若い時はまだ言えなくて、行きたくないなんて言えなくて、遅れることの罪悪感は人一倍あるし目立たないためには遅れないことがいちばんなのに色々な場面で遅れ、到着までに自分のことを既に責めているので、いざ到着した時の謝るキャパシティがなく、謝れなくて先生を怒らせたこともあったな。何も言葉が出ないんだよね。死にたいに繋がっちゃって。いやいや、それ今考え始めちゃったら何も言えなくなるのに。自分で遅れてるのにもう自分でHP0にしてさ。綺麗にしっかりと謝れる人って自分で自分のこと責めてないと思うんだよ、罪の意識が意外とない。死ぬことを考えるほどそんなに自分は悪くないと思っているし、仕方ないと思っているから余裕を持って謝れるんだよ。許してもらうことに頭が回っているんだから。どうして逆説的になるんだろうね。ゲームとしてバグってるだろ。今ならどうするべきだったんだろうって、考えてみようか。
生きたくなかったからね。行きたくもないんだよね。授業に行くことって、前向きに生きることじゃん。自分の気持ちと正反対のことを強いられてる。どうして行きたくもない学校に通ってたのか、恥ずかしいことだったからだよね。学校に行かないことで家族には顔向けできなかった。やりたいことがないと家族には言えたけど、生きる意思は示さないといけないし、そのために子供はやっぱり学校に行かないといけないし、行けないと自分の存在を肯定できなかった。何かできている状態、褒められている状態にいないとマイナス加点。地元を出て一人暮らしするとその強制感がなくなった。家を本当は出たくなかったし、地元好きだったからその時は。単純にどうしてたんだろう、必死に周りについていこうとしてた。周りに合わせるよね、自分のやりたいことなんてないんだから。いつか見つかるなんて嘘だよね。周りが楽しいと思うものを試しにやってみて、楽しいを探してみた。必死で真似して、合わせて、でも最初の年の冬かな。今でも思い出せる雪がオレンジの街灯で照らされてるとき、いくら頑張って社交しても微塵も楽しくねえなって。何回も何回も、自分は大丈夫、楽しめてないのは慣れてないからだとかメンバーがあってないからだとか言い聞かせて忘れた頃に参加しなおしたり、社交に挑戦してたんだけど、急に虚しくなった。何度試しても後悔しかない、反省しかない、終わった後に自己反省会きつい、不毛すぎる。みんなが楽しそうに笑っていること、自分はめちゃくちゃテンション上げて顔作り笑いして合わせてやっと参加している。自分だけじゃなかったと思う、みんな周りとつるむことで安心したかったんだろうけど、自分の場合安心はもらえるけど借金が多すぎる。過払金、大人になったんだから今帰ってこないもんかな。
そう考えると20歳くらいで気づいたことを26歳でまた、やってしまったんだな。自分はまだやれる、頑張れると思って、引っ越して見知らぬ土地に飛び込んで就職して、2年。めちゃくちゃ頑張った。普通の人になるために。社交とにかく頑張ったし好きな自分でいるために努力した。自分を犠牲にすることを厭わずに、常に人に優しくした。殺してやりたいと歌う星野源に支えられたので、近年の優しさの固まりのような星野源と呼応するように、頑張った。自分の理想とする自己に、重ねるように自己を成長させた。ラジオパーソナリティの話し方を真似て、日本語でシャドーイングしたり、演劇の本を読んで発声練習をしながら運転したり、ノートを作って覚えて家に帰っても勉強して、電話応対のマップ作って。困っている人がいたら助ける、仕事が終わらない人がいたら助ける、怒っている人がいたら話を聞く、年下の子の指示はとりあえず聞いてみる、それらは別に悪いことじゃなかったと思う。今書いている分には。
でもね、かけた労力に見合うほど自分の仕事が場慣れしていかなかった。電話応対もやればやるほど拗れていく。客対応やパソコン仕事も、話しかけることさえも勇気を出してやるような自分にとって、数をこなしたとて何も、何もうまくならない。結局答えがわからないから。それ違うよ、合ってるよのフィードバックがもらえない。統括するような上司がいないんだよね、大学生って人から仕事を教わると思っているし思っていたし、でも実際、空いた穴を埋めるように人って補充されるから、手を伸ばして体張ってやるしかなくて。それには失敗はつきもので人に迷惑かけたりすることに罪悪感をまともに感じる人に取ったら、続けることなんてできない。利益出れば、あとは何思われてもいいって、他者に責任転嫁出来るような人間になる薬とかないかな。自分は何故か、周囲の人が不幸せだと0なんだよ。関係のない人が不快に思ってたらそれはもう失敗って思えちゃう。何から来てるんだろうねこの気持ち。逆に誰かが不快に思ってなければもう、不利益を自社が被っても私はダメージを受けない。よろしくないよねー。金で解決するなら解決すべきっていう、サラリーマンとしては非優秀な気持ちが出てしまう。商業という形態に自分の気持ちが合わない。生きていけない。金稼げない。仕事できない。働けない。に繋がっちゃうんだよね。辛いよ。
それで、もう社交やめようと。社交めっちゃ頑張った結果、会社から帰れない、歩けない、楽しいことはない、食欲はない、休日たてない、部屋掃除できない、断る元気ない、たくさんの人が怖い、事務所が怖い、話すことも怖い、元気って聞かれることが怖い、友達からの心配が怖い。
や、多分社交を頑張ったことは良かったと思う。努力したことは大変えらいことです。ただ自分を責める罪悪感とか責任感とかデフォルトで持ちすぎてるから、そういうのがない普通の人、死にたいとかそこまで思うような経験がない人と一緒に働く環境が悪かった。環境が悪かった、そう思うようにしなければもう二進も三進もいかんじゃないか。環境が悪いと誰もが言えるような職場だけど、そう位置付けることも自分が許せてない。環境が悪いって言える人が嫌いなんだよね多分。あっけらかんに会社が悪かったって言ってるような人を見るとしんどくなる。なんなんだろ、自分に厳しいのとも違うし、、、他者に原因を求めることが意味ないことに小さい頃気づいたからかね、誰かが悪いって言ったとて、なんの意味もなかったの。私の人生にスポーツは大きな影響と恨みとトラウマを与えた存在なんだけど、そこで社会に合わない学習をしてしまった。その場に適応できるんだよね、体力があったから子供の頃って。全部責任感だわ、自分のせいで負けたとか、そういう経験が多すぎて。やりたいことではなかったのに、なんがこんがらがっちゃってね。ひねくれちゃったよ。周りにそのスポーツが好きだからやってる人、ひとりしかいなかった。そのひとりは好きだって言ってたな。みんなですごいとか、変わってるって言ってた。そんなもんなんだよ。本当に嫌い。はっきり言う。
祖父の葬式に戻った時かな、知らん人ばっかりいる懇談の中で、知らん人に褒められたけど、自分は監督やってくれてた人間を悪く言った。最悪でしたよと。でも聞いてた親は、そう言う時は良く言うもんだよって、そろそろ大人なんだからって。親は無自覚な娘にそう教えた、私もああそうかそうしなきゃなって思った。そうか、地元で生きるってそういうこと?育ててもらったことを感謝して、地元に帰ったら挨拶しに出向いて、集合した子供達に都合のいいお言葉を発して、何もしてないのにお礼言われて頭下げられて、でもそれを崩すことは目上の人を敬うという教育を曲げることで一貫性が崩れて子供を混乱させるだろうから言えずに、必死に苦しい練習を笑いながらヘラヘラ見てる先輩方が許せなかったから、そういう人間にはならないようにしようって、大人になった時思い出せるように絶対忘れないようにしようってその時思ったんだよ。
クソはクソだし、いくらいい影響を、進路を決めてくれたって、あの鍛え方を選ぶ教師ってクソだから、尊敬できるまともな人間なんてあのスポーツの世界にはいなかったから。嘘でも「おかげさまで」なんて言えないって思ったんだよな。子供なんてやりたいか?って聞かれたらやりたいって答えるんだよ。機会損失を恐れる子供だったから、あと勉強、自分のためにやる意味が見出せなかったから。意味がないこと本当にダメなんだ私は。意味がないことへの恐怖、どっから来てんだろうね。もっと素晴らしくちゃんとしたものだって思ってたの、世界って。高校1年生まで。自分のために頑張れなくなった、なんのために頑張るのかわからないまま何かを続けることってできないから。脅されたり困ることがあるから続けただけで。辞めるべきだった、でも辞めたとて多分自分はやりたいこと見つけられなかったろうけど。後悔はしないように選択してきた、いつも。あっち選べば良かったって思うのはかっこ悪いから。最大値を狙って選んできたつもり。でもその物差しって、生きる気力がないとうまく計測はできない。自分は生きたい気持ちがないって本当は思っているのに、その最大値って生きたい人に向けたプラス方向マイナス方向だから。大学までは最大値が出せるけど、就職ってもうバラバラだから。大手、中小とか業種の給与順とか、そういう物差しで最大値狙えば良かったかもだけどもう、そんな状況じゃなかった。生きてることでぎりぎりで、何も考えられない、先のことを考えることは自分の死にたいって気持ちと反すること、だけど大学卒業するには就職先を決めてないことはあり得なくて、誰にも相談できない、家族のもとに帰る気力もない。最後ボロボロになりながらも関東まで行って、今だったら辞退すべきだった本当に。でもその時はそれを大事に抱えて、まだ自分は大丈夫と、すごい立派だよと思えるものだった。そんなこと長々やってるからスポーツを辞めた喪失感で何も自分に残ってない気がして、大学って本当に何にも、得なかった。得ようとすることは死にたいと反する。ただ誤魔化して長らえた。明日生きるために今日を生きて今日生きるために今を誤魔化して、辛いを辛くないにするだけ。パソコンでニコニコ動画延々見るとか、寝るとか、コンビニで弁当とポテトチップスとチョコレートでお腹いっぱいにするとか、しんどかった。人の目があるっていうのは。自分の存在が知られている、期限がある、大学ってしんどかった。今でも夢見る。大学4年くらいにタイムスリップしてたりする、目を開けてああ、ここかって思う。全然大丈夫じゃない、後輩がたくさんいて良くしてくれても、良い格好はするけど何にも大丈夫じゃない。嫌な思い出だな。自分の過去を何にも肯定できない。微塵も肯定できない、したくない。恥ずかしい、嫌い、辞めたい、いなくなりたい。終わりにしたい、消し去りたい。今人生が終わってしまえば最高。社会に生まれたら社会に擬態せざるを得なかった。擬態できない人はいいんだよ。レールに乗れなくて自分を責めたり社会を恨んだりするだろうけど、消耗していくこともない。擬態は辛いよ、仲間を見つけることもできないんだから。自分の本当の部分を見たら幻滅される。でもオフれない。自分が何を思ってるのか、もうわからない、わかる前に反応しちゃう。思ってもいないこと言ってる。笑ってもいないのに笑ってる、笑ってるつもりなのに疲れてる、嫌ってる気ないのにいつの間にか恨んでる、本当の想いがどこにもない。一人にならないと自分の気持ちがわからない。一人になれば一人が大好きだし、世界滅べばいいと思ってるし、友達全員死んでもいいと思ってる。感謝すべきだけど恨んでもいる。自分が自分を出さなかったからなんだけど、全てが自分を抑圧していたものと捉えてしまう。復讐。自己を尊重してくれなかった復讐をしてる感覚。親しく接しておいて急に連絡を取らなくなること、罪悪感強い。実際取れなくなったが正しいし、話す元気がない、心地よいやり取りのための思いやりや、喋りたい聞いてほしいみたいな我慢が効かないのが本当だけど、ざまあみろと思ってるのも本当。人々の記憶から自分の記憶だけ消えないかな。ファンタジー。

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