キレられたらキレ返せ

ことわざには歴史がある。
ことわざにも作者がいる。
味わい深いものから、いい加減なものまである。もしことわざの起源を辿れたら、意外な作者に出会うかもしれない。人生の探究者やら酔狂なおっさんやら。
日常生活において、これはことわざにありそうだなと思う出来事がたまにある。調べてみるも、意に合うものが見つかることはあまりない。
ないなら自分で作ってしまおうと閃いた。いい加減なほうの仲間に入れてもらおうと。眉唾物の中に贋作が1つ混じったところで、大した問題はあるまい。


五条祐介は下北周辺に住んでいる。
家から近い居酒屋で、週に3回バイトしている。
店主はのっぽのS氏。社員はおらず、バイト3.4人で回していく。S氏は普段、気さくで優しい。
ところが忙しくなると不機嫌になる。S氏は唯一の料理人であるため、厨房を1人で切り盛りしなくてはならない。客足と共に大量のオーダーが流れ込んでくると、徐々に不機嫌になっていく。形相は紅潮し仏頂面でぶっきらぼうな口調。バイトたちは緊張しだす苦境だが、繁忙時には通常の状況でもある。

祐介が勤めて9ヶ月ほど経ったある日のことである。週末で店は繁盛していた。案の定S氏の言動は荒々しくなってくる。ただ祐介は今ではもう動じない。構わず自分の仕事をしている。
そんな慌ただしいS氏に「コロッケ出して」と頼まれた。見るとコロッケが2つ出来ている。手前の1つを皿に移して配膳した。戻るとS氏に呼ばれた。

その店のメニューにはメンチカツとカニクリームコロッケがある。中身は違うが、見た目はほぼ一緒だ。コロッケの方が気持ち小さい。
祐介はどちらもコロッケだと思って、手前にあったのを取った。不幸にもそれがメンチカツだったらしい。取り戻しに行くもすでに割られていた。
祐介はすぐに謝るものの、当然S氏の気は収まらない。忙しい中、手間のかかるメンチカツをまた揚げねばならないのだ。ブチギレられて文句を言われた。

祐介は謝りながらも、少し不服に思っている。
『俺が前もってオーダーを確認しておけば、たしかにミスはなかったかもしれない。だが厨房に劣らずこっちも忙しい。余裕なくバタバタしているところに「コロッケ出して」とだけ言われたら、俺以外の誰でも同じミスをしただろう。「大きい方はメンチだから」と一言くれれば間違うことはなかった。確認を怠った俺も悪いが、S氏にも落ち度はある。自分の責任を棚上げして俺ばかり非難している』

祐介はそんなふうに思ったが、すぐに気持ちを切り替えた。ミスしたものはもうどうしようもない。仕事で取り返そう。

しかしS氏の態度は、祐介に対してさらに厳しくなった。仕事のための最低限のコミュニケーションにも怒りが込められてる。
いつまでもネチネチ個人攻撃してくるS氏に、温厚な祐介もだんだん腹が立ってきた。S氏には自責思考が全くなく、ミスをいつまでも引きずっている。
祐介は昔から、理不尽な怒りを向けられることが決して許せない。

彼は今までいろんなバイトをしてきたが、クビになるのを恐れたことは一度もない。いつ辞めることになっても別に困らなかった。そんな祐介には苛立ちを抑える必要もない。S氏に対する受け答えは雑になっていった。当然S氏も祐介の無礼な態度はおもしろくない。2人の間に、ただならぬ雰囲気が漂ってきた。

最終的に起爆剤となったのはS氏のセリフであった。
「それにしてもメンチとコロッケ、普通は見たら分かるけどなぁ」
祐介はその言葉に『お前は普通以下だよ』という侮辱を感じた。腹に溜まっていたマグマが一瞬で爆発した。
「片方はメンチだよってSさんも一言くれればよかったじゃないですか。あの状況なら誰でも俺と同じ勘違いをすると思います。俺以外の従業員に、さっきと同じ状況でどうするか試してみてくださいよ。もしそいつがメンチとコロッケの違いに気づけるんなら、俺の不注意だったと謝りますから」

おそらくS氏は従業員にキレ返されたことがなかったのだろう。唖然として少し動揺したように見えた。祐介の言葉には答えないで、独り言のようにこう愚痴った。
「この忙しいときに、また一から揚げねえといけねぇじゃんかよ」
祐介はその言葉を無視し仕事に戻った。理不尽と戦って勝ったような気持ちよさがあった。

それからのS氏は、態度が落ち着いていった。祐介はそんなS氏に気づくと、なんだか可哀想に思えてきた。普段温厚で優しいS氏を思い出したのだ。S氏の怒りはパニックによるもので、悪意はないと知っている。

人は誰でも不機嫌になってしまうときがある。睡眠不足だったり、不運に見舞われたり、体調が悪いときに、人は不機嫌になってしまう。看護師に悪意をぶつける入院患者がいるように、機嫌が悪くて他人に迷惑をかけたくなるときもある。
S氏もあまりの忙しさにキャパオーバーする。パニックになる。むろん自分の容量不足だと考えることはない。誰かのせいにしたくなる。そんなときにミスした従業員は、不幸にも的にされる。

理不尽な怒りに対してキレたことに祐介は後悔していない。ただ普段の姿に戻ったS氏には切なさを感じる。キレ返したときの動揺した顔に哀れみを感じる。祐介は反省し始めた。
『Sさんは忙しくなって不機嫌になった。俺も忙しくなって確認が疎かになった。ならやっぱりどっちもどっちだ。Sさんも悪いが俺も悪い。ていうかそもそも、俺の要領がもっと良ければ避けれたミスだったんじゃないか。うん、そうだ。Sさんは焦って不機嫌になり、俺は焦って不注意になった。俺が焦らなければ今回のミスは起きなかった。よし、謝ろう。Sさんのご機嫌を取るための謝罪じゃない。自分のミスを素直に認めて謝るだけだ』

お客さんが徐々に帰って、店内は落ち着いった。S氏の手が空いてるのを見計らって側に行く。
祐介の声は少し震えていた。
「Sさん、さっきはすみませんでした。コロッケとメンチを間違えのは俺の確認不足です。忙しくて不注意になっていました。今度から気をつけます。申し訳なかったです」
S氏の顔はすぐにほころび、いつものやさし顔になった。
「いや、俺も悪かった。お互い忙しくてバタバタしてたからな。うん、そんなときもある。謝ってくれてありがとう。俺も悪かったよ。よし、祐、握手しよう」
職人S氏の手は堅い。そして力強かった。
祐介の緊張は弛み、涙が滲んだ。

それ以来、どんなに忙しくなっても、どんなにミスをしても、祐介がキレられることは2度となかった。

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