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みこちゃん憲法学最終講義 国家とは巨大な記憶装置である

みこちゃん憲法学最終講義となりました。

この講義のしめくくりは記憶装置としての国家論となります。

 もしも、あなたの大切な人がある日突然記憶喪失になって、あなたとの思い出が全部なくなってしまったとしたらどうでしょうか。

 出会いはいつだっただろう。

 それは理科実験室のあのときだったかもしれない。

 そこからの記憶は紛れもなくあなたの大切な記憶。いえそれは、むしろあなた自身であり、その記憶が失われるのなら、あの人との思い出がなくなるのであれば、そこから先の人生は全部贋物になってしまう。

 自分の子供がおぎゃーと生まれた時、物心ついた時に両親に手を引かれた時のあの記憶。それらが全部嘘で、あなたはもともと別の両親のもとに生まれた人間だった。

 別々の真実の人生が二つあった。

 もしこうならば、それは生きるのがとてもつらいことであっても、しっかりとその辛い人生をなんとか生きていけるかもしれない。かつて自分がもう一人の自分であったことは覚えている。つらくても、記憶は抹消されないから。いつかその二つの記憶を同時に愛しながら生きていく可能性はまだ残されている。

『時をかける少女』が切ないのは、最愛の人の記憶を失って生きていかなければならないということ。

 忘れたことさえ忘れること。

 絶望的に悲しいことだと思う。

 もし目の前の最愛の人があなたのことをすべて忘れたとしても、あなたはその人のことを以前のように愛せますか。

 もし、アルツハイマー病や不幸な交通事故などで記憶が失われた場合、それはもちろん可能でしょう。あなたにとって、あなたの愛する人はいつまでも記憶の中で生き続けているから。あなたが、あなたの最愛の人の生き証人です。あなたはきっとその人の人生の生き証人となることだけでも、その崇高な使命だけで、十分に生きていくことができるはずです。

 でも、今度はこんなことを考えてみてください。

 あなたの最愛の人の記憶が誰かの手で奪われ、その記憶を持っていたという記憶すらも奪われ、同時に、あなた自身も自分の過去を誰かに消去され、その代わりに別の人生を生きていたことにされ、さらにそうされた痕跡すらも消されてしまったら。

 街ですれ違っても、過去と一切断絶したあなたと、あなたの最愛の人は、お互いを目の前にしても、きっと通り過ぎるだけでしょう。

 この時、決定的に大切な何かが失われました。

 でももしかしたら、すれ違う時にどこからか流れてきた、初デートで二人で観た映画の主題歌くらい何となく覚えているかも知れません。

 デパートの館内のエスカレーターの上りと下りであなたたちが交差した時、あの曲が聞こえた。目が合った。この曲はいつだったか、自分の最愛の人と一緒に観たようなきがする。でも、あなたはその映画を誰と観たかは思い出せない。そして眼の前の最愛の人もまた、それを思い出せない。

 二人はまた、一人っきりのマンションに帰っていく。

 なぜだか、もう人を愛せないまま一生終わるのだとしか思えない。

 だって、誰かを好きになってしまうと、自分の中の大切なものを決定的に今度こそ失ってしまうから。それだけは、なぜだか分かる。もう人を愛さないことだけが、自分が自分でいられる最後の砦だとしか思えない。

 二人は別々のマンションで同時でそんなことを思ったけど、お互いがそんなことを思い合っているなんて分かる日は二度とやってこない。


 大切な人を守るとは、記憶を抹殺しようとする邪悪な存在から、かけがえの無い記憶を守ることではないでしょうか。


 これをお読みいただいている方に問いかけたいです。

 あなたは、誰かをほんとうに好きになったことがありますか。今、誰か最愛の人がいますか。その人の記憶を守りたいと思いますか。

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