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「夜きみ」はただ綺麗なだけの映画じゃない|『夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく』感想

映画「夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく」。
この映画を見た大多数がこう思ったんじゃないだろうか。

「綺麗だ」。

もしかしたら、この感想は何も知らない人からすると不満足だったように受け取られるかもしれない。
「それが一番の感想ってことは内容がないってこと?」
「面白くないってこと?」
でも、決してそうではない。内容はむしろ、胸キュン映画として売り出されたとは思えないほどかなりメッセージ性があったし、物語の起伏も充分すぎるほどあった。

けれど、考えれば考えるほど、わたし個人の感想は「綺麗だった」に収束する。

この記事では、その理由を原作との相違点に言及しつつ、持論を展開しながら語っていこうと思います。

※注意
ここから先は映画のネタバレをガッツリ含みます。原作のネタバレもします。映画を見てない方、原作を読んでいない方はご注意ください。また、しばらく原作と映画を比較する文章が続きますが、わたしは基本「みんなちがってみんないい」精神の人間です笑。どちらが良い悪いなどの優劣をつける意図はありませんのでご理解ください。

映画的な「綺麗」

突然だが、テレビドラマと映画の違いはなんだろうか。私が思うに、一番は視聴環境だと思う。テレビは私たちの日常生活と常に隣り合わせ。故にドラマでは、リアリティを求められることが多い。けれど映画は違う。映画館という、日常とは切り離された、真っ暗で自分しかいないような空間で視聴されることを前提に作られる。つまり、観客は世界観に没入しに来ているのでテレビドラマほどリアリティを求めないし、作り手もリアリティよりその瞬間瞬間の「映像の綺麗さ」を優先することがある。

その点において、夜きみはきわめて「映画的」な作品だ。
まず、茜の家。原作では一般的なサラリーマン家庭である。しかし映画ではカフェを営んでおり、茜は屋根裏部屋に住んでいる。その屋根裏部屋がまた特殊で、アンティークな小物や家具に囲まれ、なんとドアは本棚の隠し扉。女子高生の部屋としてはリアリティに欠ける。でもそこに「無遅刻無欠席」の付箋だったり学校のスケジュール表だったり、女子高生のリアルを感じられる小物があることで「映画だからな」となんだか納得できてしまう。(茜の家については色々解釈がありそうなのでみんなの感想を聞きたい…)
クライマックスシーンもそうだ。現実であんなに服を汚したら、母親は顔を真っ赤にして怒るだろう。しかも汚したのは、毎日着る制服だ。クリーニングに出すのも難しい。(ちなみにこのシーンは原作には存在しない。)
他にも、廃遊園地に忍び込んだら不法侵入だろうとか、広大な公園が通学路ってどんな学校なんだ?とか、東京の街で口笛がそんなにハッキリ聞こえるか?とか。家でソファに寝そべってポテチなんか食べながら見ていたらツッコミが止まらないかもしれない。でも、映画館で見ると許容できる。

きっとこれは、ただ「映画だからそうした」ではないと思うのだ。本作では「綺麗」が物語の大きなキーワードになっている。茜が初めて青磁の絵を目にした時に言う「青磁くんが見てる世界はこんなに綺麗なんだね」。二人で見る夕焼け。青磁が一番綺麗だと思った茜の笑顔。その一番がクライマックスシーンで塗り変わり、青磁は更新された「一番」をキャンバスに描く。5年後それを目にする茜、そして振り向きざまの、青磁が一番見たかったであろう茜の笑顔…。このストーリーを成り立たせるためには、綺麗さ・美しさに説得力を持たせなければいけない。こういった理由から、リアリティより映像美を優先した演出が選択されたのではないだろうか。そしてそれが結果的に「映画的」となった。さらに、この作品の題材は絵だ。シーンのひとつひとつ、一瞬一瞬をそれこそ絵のように美しく撮った本作の演出は、この題材とも大きくマッチする。

制約のなかの「綺麗」

小説と映画にも大きな違いが存在する。制約の多さだ。小説は文字だけで、どこまでも広く世界を表現できる。しかし映像作品はそうはいかない。人、小道具、衣装、場所…、ありとあらゆるリソースを集めなければならないし、予算や撮影時間、動画の尺という制約もある。制約の中でいかに良い作品を作れるか、というのが映像業界の永遠の課題だろう。

本作も、そういった制約を察せられる部分が多々あった。まず、原作より主要登場人物がかなり絞られている。大きいところで言うと、茜の兄だ。原作では兄がサッカーをやっていて、青磁は茜の兄と同じサッカークラブにいた。しかし映画では茜自身がサッカークラブにいた設定になっている。他にも、原作では美術部員が茜の味方になってくれるが、映画では現れない。
構成も大きく異なっている。原作では青磁が茜をつっぱねる期間があるが、映画ではまるごとなくなっている。恐らく映画の尺という制約上そうなったのだろう。シーンの時系列やロケーションも異なる部分が多々ある。正直、後半は原型をほぼ留めていない。

しかし、ストーリーを分かった状態で、且つ原作との違いを把握した上で本作をもう一度見たとき、「なんて美しい構成なんだろう」と感心した。シーンひとつひとつに明確な意味・意図があり、まったく無駄がない。登場人物の行動もひとつひとつ動機がしっかりあって矛盾がない。こんなにも内容を削って改変しているのに、矛盾がないって結構すごいことだ。映画の尺に収めるためにシーンをただカットするだけなら誰でも出来る。しかし、本作は原作の要素を噛み砕き、物語として矛盾がないよう徹底的に無駄を省き、再構築している。(一応言っておきますが、原作に無駄があるという意味ではないです。)それは非常に繊細で丁寧さの要求される作業だっただろう。なにより、原作の意図をひとつひとつ汲み取らないと出来ない作業である。

曖昧さが生む「綺麗」

小説と映画にはもう1つ大きな違いがある。言葉による説明の量だ。小説は文字による描写があり、そこから読者が情景を想像する。一方、映画は先に情景が映像として与えられ、そこから観客が登場人物の感情を読み取る。故に、言葉で説明されないところをなんとなく察したり感じ取らなければいけない部分が多々ある。
例えば、本作で言うと、冒頭の茜の家族のシーン。起きて来た茜に父親が話しかける。「茜ちゃん。」ここで観客は違和感を抱く。「実のお父さんじゃないのかな?」現実世界でこの年頃の我が子をちゃん呼びする家はそう多くないからだ。しばらくして母親の「お父さんって呼んでもらうのが一番嬉しいと思うよ」でその違和感が確信に変わる。

本作はこのような、曖昧に描くことで観客の想像力に解釈を委ねる部分が他作品と比べても多いように思う。
一番は、タイトルの意味だ。原作ではタイトルの意味がかなり明確に描かれる。しかし、本作ではタイトルの意味は明かされない。他にも、原作では青磁が銀髪である理由、青磁が空を好きになった理由、茜が家ではなくバス停の前でマスクを外す理由、茜が青磁を好きになった瞬間などが明確に描かれているが、映画にはない。ここが、原作を読んだ人の中で大きく評価が分かれるところだろう。

個人的には、監督の「映画は見てもらって完成する」という言葉が全てのように感じた。つまり、映画の中に全て正解を置くのではなく、聴衆が各々解釈を膨らませることで初めて完成するように、最初から余白をあけて物語を組んでいるのだ。

映画らしい映画

「夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく」はただ映像が綺麗な映画ではない。それは、作品の主題を表現するために必要な映像美であり、見た人の解釈に委ねる余白を残しながら丁寧に再構築されたムダのないシーン構成という映像の美しさに負けじと中身の作りも美しかった。

総じて言えるのは、この作品は極めて映画らしい映画だということだろう。リアリティより映像美を優先するところも、見た人の想像力に委ねる部分が多いところも、映画らしいと言える。そして、この「映画らしさ」が刺さるかどうかは人によりけりだと思う。ものすごい良作に感じる人もいれば、ツッコミどころが多いだとか作り手のエゴを感じるだとかいう評価になる人がいるのも理解できる。

わたし個人としては、映画として発表されたんだから映画らしいのは良いことだろうと思っている笑。また、これはただの好みだけれど、作り手が丁寧な仕事をしているな〜と感じる作品が大好物なので、画作りのひとつひとつに尋常じゃないほど拘って、物語も緻密に構成されていて、ひたすら「丁寧」だった本作は純粋に良い映画だと思った。いち瑠姫推しとして、推しの初主演映画がこんなにも丁寧に愛情を込めて作られた「夜きみ」でよかったと心の底から思う。

…もはや、夜きみの感想というよりただ私が映画論を語っただけになってしまった。ここまで長文駄文を読んでくださった皆様ありがとうございました。

最後にこれだけ!
夜きみは是非、映画館でご覧ください!



ここからは書ききれなかったことをつらつら書いていきます(長い)

蛇足1:ラインダンスの意味

文化祭の演目、ラインダンス。「文化祭でラインダンスってなに?!」と思った人も多いでしょう。わたしも思いました。ここ、原作ではもともと演劇でした。じゃあなんでわざわざラインダンスに変更したんだろう?これはわたしの想像でしかないけど、ここにも映画ならではの制約が関係していたように思います。
まずこの手の劇中劇は、主演のどちらかが劇中劇でも主演を務めることが多いです。でも原作だと青磁は劇の主演を蹴ってしまう。つまり、映画内で劇を表現したとき、主演じゃない別のキャストがメインになる時間が出来ちゃうわけですね。それだと画がもたない。また、監督はこのシーンで「茜抜きでクラスメイトが盛り上がっている」様子、茜の孤立感を描きたかったように思います。それをするには、茜以外のクラスメイトがずらっと並んでいる画があった方が、孤立を強調しやすいです。演劇だと、舞台上に立つのは劇のキャストだけ。その他スタッフを担当する生徒は映りません。そういった理由もあってラインダンスが選ばれたんじゃないかと。まぁ推しがダンス出来るからというシンプルな理由かもしれないですけどね笑。

蛇足2:ペンの持ち主

「ペンを盗まれた子」。映画だと青磁ですが、原作だとこれは青磁ではありません。というか、青磁とはサッカークラブだけの繋がり(且つ茜はただサッカークラブ見学にきてるだけ)で、小学校は一緒じゃないんだよね。あと、青磁が小児がんになるのが原作だと中学生だけど、映画だとずっと病弱だったっていう設定になっている(茜のお母さんが青磁の病気のことを知ってたから多分小学生のとき?)。これら諸々の設定変更は恐らく、「ヒーローが入れ替わる瞬間」を色濃く描きたかったからなんじゃないかな〜と思います。茜にとって青磁は無彩色の毎日を彩りに変えてくれたヒーロー。でも実は青磁にとっても茜はヒーローだった…っていうのが、屋上ひっぱり上げシーンの入れ替わりで明確に描かれてますよね。原作のままでも勿論素敵なんだけど、映画ではこのヒーロー入れ替わりを強調するために「青磁が茜に助けられた」部分をより肉付けしたかったんじゃないかな。それに伴って盗まれたペンが「かわいいペン」から「綺麗なペン」に変わっていて、結果的にこの映画のキーワード「綺麗」にも繋がってますよね。

蛇足3:映画「夜きみ」が大人にもウケる理由

公開日、わたしのTwitter(X)には「キラキラ胸キュン映画かと思ったらいい意味で期待を裏切られた」とか「恋愛映画苦手でも楽しめる」とか「大人にもおすすめの映画」みたいな感想で溢れかえってました。分かる〜!と思いながら、冷静にここまで大人にウケた理由はなんだろう、と考えてみた。色々あると思うけど、一つ大きいのが茜のキャラクターだと思います。原作と映画の茜ってちょっと違うんだよね。原作の茜は心の中でよく喋る。あと、原作の茜は最初青磁のことが大っ嫌い。端的に言うと、原作の茜は等身大のリアルな女子高生なんですよ。でも映画では、茜の心の中の言葉は語られない。わたしたちは外側から見る茜を見て感情移入する作りになってました。それがなんだか「あのころ(学生時代)の自分を見ている」構図に近くなったんじゃないかな〜。逆にもしモノローグで茜の感情が語られまくってたら、女子高生がメインターゲットの映画になってたんじゃないかなと思います笑。

また、このことによって原作だと「大嫌いだったあいつのことをいつしか好きになってた」的なド王道ラブストーリーだったのが、茜の感情が語られないために「大嫌いって言ってくるわりに時々優しくされて困惑する茜」になっていて、恋愛色が薄まってるんですよね。で、恋愛色が薄まったからこそ、前述の「ヒーロー入れ替わり」がより強調されると言いますか…。やっぱり、映画で描きたい部分を極限まで絞ったことで、大人にもウケる映画になった感じがしますね。


多分まだまだ書ききれてないので、思いついたら追記していきます()ほんとに長文ですみません汗、ありがとうございました!

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