男みたいな女ってどうですか
どうも、毎日様々なお客様が来店される職場で働く中、子連れの家族の子供たちに1/20の確率で「男?女?」という疑問をぶつけられるMikoです。
この話は今に始まった話ではなく、結べる長さの髪を初めて結べぬ長さに切った高校時代へさかのぼります。
が、私の中性性は例を挙げたらキリがないほどなので、今回は最近の心情に重きを置いて「男らしさ/女らしさ論」に触れた内容にしたいと思います。
まぁまず気になると思うのが、「男に間違えられるのってどうなの?」ってとこですよね。
私に限った話ですが、外見が「短髪」「長身」「ぺちゃぱい」の三連コンボでいわゆる「女らしさ」に欠けたものであることは思春期から思い知っていて、ある時はそれが強みになったりコンプレックスになったりしているわけですね。
強みになるところでいえば、「女らしくない」が故にあまり沢山の男性からいやらしい目で見られることがない。つまり男女の友情が成り立ちやすい(と思ってる)。ので、ミニスカートを履いた日以外は痴漢や不審者に遭ったことがない。スカートを履くと否応なしに「女認定」されるのでいつもより公共の場では警戒心強めになりますよね。仕方ない。
そしてコンプレックスは想像に容易いですが、何よりもぺちゃぱい。貧乳。それ故、更なる男っぽい性格も相まって、モテない。(笑)
モテないことはそこまで気にならないんですが、男性に見られる/られない抜きに、自身の「理想の女性像」から自身があまりにもかけ離れていて、現実に絶望するという意味合いかな。
私の中での究極の女性性(色気、余裕、茶目っ気、隙、艶めかしさ、母性、少女性)を併せ持った人は椎名林檎なんですが、どんだけ自分は日本から見たブラジルレベルに対局、反対の場所にいるんだろうと…
水原希子ちゃんのことも大好きで、彼女は豊満な体つきでないのにも関わらず色気があって少女性もあって、それはもちろんモデルという職業柄、様々な顔を見せる必要があること、色んな洋服が着られることもありますが、やはり内からでる``何か‘‘が``それ‘‘になるんだろうと。それが私にはないと。
何か。
「自信」ではないのか?!
私には、世間の「巨乳主義」「女らしさ論」「モテ女」のスパイク洗礼にすっかり負けて、「貧乳」「男みたいな女」「非モテ女」である自分に全く自信が持てず、悪循環に陥ってたのではないか?!それがなにか「悪いこと」「あるべきでない姿」だと自分に言い聞かせて、ある自信も失っていたのではないか?!
…そんな気がしてきたのが、2015年に行ったカナダ以降。
外国の人たちと初めてガッツリ触れ合って、日本的な女性らしさに囚われない環境での人間関係は自信にも繋がったし、色んな「女」「男」がいていいんだと意識に幅が持てたのは私人生において大きな財産だなと思います。
フェミやミソジニーやマイノリティの台頭や多様性の強要と、挙げればキリがない「個性の解放」「自由欲求」「マジョリティの正義」みたいなものたちって、やっぱ「大多数と異なるひと/もの」を「わたしと何ら変わらないひと/もの」と認識出来るか否か、っちゅう極シンプル明快なクエスチョンだと思うんです。
なにが言いてぇかっつーと、極シンプル明快なことだけに、これほど複雑な人間社会で極シンプルなことが出来る人ってのは限られてくるので、シンプルなことたちはムズカシイ皮を被ってややこしくなっていくんです。
そこを皮剥いて中身を吟味しよーという人たちはとても真面目で繊細で、傷つきやすい人たちだと思うんです、それは私も含めてね。
そんな自らを認めたとき、フト、「あー私ってこのままでいいんだな」って思ったんです。
もちろん、恋をしてるなら好きになってもらうような努力は最低限したいと思う。それは、自分の外見を好みに反して変えるようなことではなく、人間的な魅力を感じ取ってもらえるような話し方、身振りを勉強してみたり、よく笑うようにしてみたり、聞き上手を頑張ってみたり、話題を欠かさぬように勉強したり。
そういう「人間の基本」部分を磨いていったら、“男みたいな女” も “女みたいな男” も皆
“魅力的な人間” になれて、“男らしさ/女らしさ論”が萎んでいくんじゃねーかなー って思うんです。
だって、身の周りにいる魅力的な人間たちって、髪の長さも身体の特徴も関係なく、素晴らしいもんな。
ビバ、“魅力人間”!!!!!!!!
Miko
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