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遥と静かなテーブル①

第1話:静かに崩れる日常

朝6時。いつも通り目覚ましの音が耳を打つ。薄暗い部屋の中、遥はベッドの縁に腰を掛けて無感情にそれを止めた。何度目だろう、同じように無表情で1日を始めたのは。毎朝、繰り返される同じ行動、同じ光景。何かを期待して目を覚ますことは、もうずっとなかった。

職場までは電車で40分。窓の外を流れる景色も、通勤ラッシュの無言の群れも、もう飽き飽きしていた。遥はスーツのポケットに手を突っ込みながら、電車の中で次の一歩を無意識に考えていた。仕事は、嫌いではない。ただ、特に好きでもない。やることは決まっていて、誰かに感謝されるわけでもない。そんな日々が何年も続いている。確かに最初はやりがいも感じた。けれど、それも時間とともに消え、今はただ淡々と時間が過ぎていく。

私、これでいいのかな?

頭の片隅でそんな疑問が浮かんでくるが、すぐに消してしまう。目の前の現実から逃げられないということを、もう何度も確認してきたからだ。定時が終わればまた帰宅し、無機質な部屋でテレビを見て、眠る。そんな日々に、遥は慣れてしまっていた。

帰り道、駅近くのバーの灯りがふと目に入った。いつもなら素通りするその場所に、今日はなぜか足が止まる。足元に落ちた自分の影が、少しだけ重く見えた。まだ帰りたくない。家に帰っても、待っているのは静寂と孤独だ。

「たまには…いいかな」

自分への言い訳を口にしながら、遥はバーのドアを開けた。中は思ったよりも静かで、奥には数人の客が座っている。カウンターに腰掛けると、バーテンダーが無言でメニューを差し出す。何も考えずに、ビールを注文した。しばらくして、カウンターの奥から聞こえてくる声に気づいた。

「次のカードをめくってみろ」

目を向けると、数人がテーブルを囲んでカードをしているのが見えた。ポーカーだ。学生時代、友人と一緒に海外旅行に行った時、カジノで遊んだ記憶がふいに蘇る。あれから5年が経っていた。あの時は、何もかもが新鮮で、何もかもが輝いて見えた。でも今は、輝きなどどこにもない。

もう一度、あの感覚を味わいたい

遥は、ふとした衝動に駆られた。無意識にそのテーブルに引き寄せられていく。懐かしさと同時に、何かを忘れられるかもしれないという期待があったのだ。

静かにカードが切られる音が響く。ゲームは淡々と進んでいる。テーブルの上のチップが積み上がり、少しずつ動く。遥はその様子を黙って眺めていた。誰も声を上げることはなく、ただゲームが進行していく。カードの音、チップが触れ合う音、それだけが静かに場を支配していた。

やってみますか?

目の前に座っていた男が、遥に向けて問いかけた。彼の目は鋭く、何かを見透かすような光を持っている。遥は軽く息を吸い込み、微かにうなずいた。

そんなに深く考える余裕もなく、ただ手を動かしてカードを受け取る。最初の数手は負けたが、不思議と心は穏やかだった。勝ち負けよりも、カードを持つ感触や、テーブルを囲む静けさが心地よかった。日常のルーティンを忘れられる、その感覚が遥を包み込んだ。

気づけば夜は更けていた。時計を見て、家に帰る時間だとわかっていながら、どこか満たされた感覚が残っていた。遥は店を出て、冷たい夜風にさらされる。ポーカーと再び出会った瞬間、何かが変わったのかもしれない。けれど、その答えはまだ見えていない。



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